ウェス・モンゴメリ生誕100周年
ウェス・モンゴメリ外伝
100th anniversary of Wes Montgomery’s birth
ウェス・モンゴメリ(John Leslie “Wes” Montgomery/1923年3月6日-1968年6月15日)は今年2023年3月で生誕100周年を迎えました。
単なるジャズ界のレジェンドとして語るに有り余る功績は、今なお多くのギタリストに影響を与え、多くのファンを魅了し続けている。
そのひとつの事由として、彼が築き上げたオクターヴ奏法がジャズの変遷に伴う好尚に合ったと
言える。それはギタリストにとってある意味、楽器そのものよりステータスシンボル的な存在になったとい言っても過言ではないと思う。
オクターヴ奏法はジャズならずとも多様化する音楽に融合し、かつ消滅することなくきらびやかな存在であると言える。
これ以上の高評はこの紙面で今更【語るに及ばず】との不評を買うことにもなりかねないので、ここではウェス・モンゴメリを中心にファミリの足跡も加え、特に1959年までの草創期から創成期を外伝として年代ごとに列記することにします。
昨今、ウェスに関して多種多様に伝えられ報じられていますが、明らかに誤記・誤報も見受けられることから、できる範囲で確たる証拠となる文献等を掘り起こし事実をお伝えしたいと思います。
参考文献 : IPR(インディアナポリス・リコーダー新聞), IPS(インディアナポリス・スター新聞)等の記事や広告を引用する。
南北戦争(1861-1865)は奴隷制度廃止を主張していた北軍の勝利で終結した。
20世紀に入ってインディアナポリスは自動車産業で発展し道路延長整備が行われ都市間を結ぶ鉄道の拠点にもなり、市の中心部に建てられたインディアナ兵士水兵記念塔は街のシンボルとなっていた。
同じくこの頃 “アフリカ系アメリカ人の大移動” と言われ南部ではなお続く奴隷制度から逃れて北部へ多くの人々が移住した。しかし人種差別は相変わらず残されたままで、黒人の生活環境は劣悪なものであった。モンゴメリ・ファミリも苦境な時代のウェス等の両親から始めるとする。
1917: もともとウェス等の両親の幼少期は、父トーマス(トム)・モンゴメリがジョージア州(アメリカ南東部)のケイヴ・スプリングに住み、母ユフォーラ・ブラックマン、通称フランシスは16マイル離れたロームに住んでいた。
トーマスは家族とともに何度か引っ越しをしたのち、ここインディアナポリスのダウンタウン西側にある労働者階級の街、ホウヴイル地区に働き口を求め北トラウブ大通1030番地に定住した。フランシスの母親も1916年~17年頃までジョージア州に居たが18年にはホウヴイル地区の北トラウブ大通1054番地あたりに住んでいた。
1919: 3月8日、トーマスとフランシスはインディアナポリスで結婚し、翌年にはウエストサイド近くの北パーシング大通り1007番地に新居を構えた。それまでトーマスは、1918年4月から7月までケンタッキー州で兵役に就いていたが、除隊後は自宅から数ブロック先の可鍛性鋳造(鋳物)工場で働いた。
1920: 1月、長男トーマス・ジュニア(Thomas Montgomery Jr.) 愛称ジューンが誕生。
1921: 10月10日、次男ウィリアム・ハワード・モンゴメリ(William Howard “Monk” Montgomery)愛称モンクが誕生。
出生証明書に父トーマスの職業は可鍛性鋳造工場で “灰殻処理職” と記載されている。
1923: 3月6日、三男ジョン・レスリー・モンゴメリ(John Leslie “Wes” Montgomery) 愛称ウェスが誕生。今なおウェスの出生を25年説とする見方も存続するが、リヴァーサイド・レコードのオリン・キューブニュースは「私とウェスの生年月日が僅か4日間しか違わなかった」と1988年に出版された自身の著書【THE VEW FROM WITHIN/ORIN KEEPNEWS】の中でも語っている。

ここに、その確証となる、23年3月13日のIPS紙で、ウェスの誕生を、その週に生まれた子供の中で単に「男子」として掲載している。
当時は出生/死亡まで地元記事として扱かわれていた。
1925: モンゴメリ家は、北マイリー大通り1116番地に引っ越した。6月、長女チャリティ(Charity Frances) 誕生。(彼女は幼少で死亡)
1926: モンゴメリ家の音楽性が初めて明らかにされた。この年のIPR紙の可鍛鋳物に関するニュースコラムで、「ブラック・バーン・クウォーテットは土曜日の夜毎リハーサルのために父トーマス・モンゴメリの家に集まり、フォークソング中心に演奏していた。」と紹介されている。
グループの構成は不明(おそらく長男のジューンもそのひとり)だが、西12番通りに住んでいたモーリス・ブラックバーンというインディアナポリスのミュージシャンが率いていた可能性がある。
彼は1928年頃シカゴに移り、そこで演奏した後、ミシガン州グランドラピッズに移り、30年にはオーケストラで演奏した。(IPR:1926年1月30日号)
1927: 8月、次女アーヴィナ(Ervena Marie)誕生。愛称リーナ(Lena)が誕生。
1930: 1月30日、四男、チャールズ・フレデリック・モンゴメリ(Charles Frederick “Buddy” Montgomery)愛称バディが誕生。
4月、国勢調査担当者が訪れた時、一家の住んでいた北マイリー大通り1116番地の近隣は普遍的な黒人街で男性の殆どは鋳造工場で働いていた。
ほかに隣接していた工場といえば豚肉と牛肉における「解体作業」であった。
しかし、年内で両親トーマスとフランシスは離婚。
12月に、ジューン、モンク、ウェスの3人は父親が住むオハイオ州コロンバスに移住。
1931: ☆母フランシスは、リーナとバディを連れ、彼女の母親にあたるヘンリエッタの住む北シェフィールド1050番地に同居。その後何回か引っ越ししている。
☆コロンバスで、ウェスは演奏しながら歌うプリーチ・オバノンという、ストリート・ミュージシャンがティプレ(南米で普及した楽器で4コース3弦で、3本ずつ同音)を弾いていたことから弦楽器に興味を持ち始め、彼からティプレのチューニングやコードの弾き方を教わった。
1932: ☆父トーマスはジューン、モンク、ウェスらとともにオハイオ州コロンバス、セントクレア大通り186番地に住民登録されていた。
トーマスは1950年代半ばまで、地元の農産物会社のトラック運転手として働いた。
☆ウェスが10歳の頃という逸話としてモンクは「ウェスがギターを50セントで売るという人が角に居るんだ」ということで交渉すると更に50セント出せと言い張ったので諦めたという。
未刊で終わったバディとジョセフ・ウッダード著の【モンゴメリ・ブラザーズ・ブック】より抜粋されたモンクの証言。
1935: 34年という説もあるが、ウェスは兄モンクがアルバイトで貯めた13ドルを貰い質屋で見つけた4弦のテナー・ギターを購入。
この年、エンプレス劇場で毎週土曜の午後に映画上映の前にコンテストがあり、ジューンがドラムス、ウェスが4弦テナー・ギター、モンクもギターを持って参加した。
モンクは「ウェスは既に演奏できていたが、僕はギターが弾けないのでかき鳴らす格好だけで参加したんだ。コンテストに出ると無料で映画が観られた」と言う。
(参考:当時モンクもギターに興味があったがそのギターは何処で買ったかは不明)
1939: 38年にフランシスの母親ヘンリエッタが亡くなる。
フランシスは10月に鋳鉄工場で働くラヴェスター・アリントンと再婚。
父トーマスとコロンバスに引っ越した長男ジューンが、19歳で亡くなる。モンクは「ジューンが17-8歳の頃、チック・ウェッブ・バンドが来た時コンテストで入賞するほどの天賦の才があった」と言う。
1940:
☆国勢調査担当者がコロンバス、グローヴ通り497番地(次の引っ越し先)にあるトーマスの自宅を訪れた時、モンクは15歳8年級(日本では中学卒)で卒業したあと炭鉱場のセールスマンとして働いていた。
モンクはのちの1942年、「21歳で結婚し長男が誕生したことで、家を借り独立した」と自身が語っている。
☆ウェスは4月10日時点ではまだコロンバスに住民登録されており小学7年級で在学中のはずがモンクは「これ以上、父親と一緒に住みたくなかったんだ。僕が19歳、ウェスが17歳の時、ウェスと一緒にインディアナポリスに住む母親フランセスの元に帰った」と証言している。
☆ウェスの後日談で「故郷に帰るとアレックス・スティーヴンスという最強な奴がいた。
奴のギターは本当に凄かったので何曲か聴かせてくれるよう頼んだよ」ということから少なくとも何らかの影響を受けた最初の人物となる。
(参考:Alec Stephensはこの年の3月にサンセット・テラスでショーバンドのギタリストとして出演した広告がある)
モンクは「アレックスとの出会いがウェスのターニングポイントだった。二人で一緒にプレイし競い合っていた」と言い、バデイは「モンクとウェスがコロンバスから戻って来た時、二人ともギターを持っており、寝室でよく演奏している姿を見たことがある」と未刊の【モンゴメリ・ブラザーズ・ブック】で語っている。モンクもギタリストに憧れていたのは確かなことですが、ウェスはこの時点でまだ4弦手テナー・ギターだと思われる。
1943:
☆ウェスはインディアナポリスの市民録では、母親の再婚相手であるラヴェスター・アリントンの住むウエストサイド近くの西パーシング大通り1102番地に同居しており、東24番通りにあるフェンスと鋳造工場の鉄鋼労働者とある。
未刊の【モンゴメリ・ブラザーズ・ブック】より抜粋されたバデイの証言によると「ウェスは19歳で結婚して昼間は溶接工として働いていた」と言う。
(参考:諸説でいうウェスが3つの仕事を掛け持ちし・・昼間は溶接工として働き・・とされる話はここから飛躍して引用されているが、のちのハンプトン楽団に入団する48年には辞めており退団後の51年から就いた仕事は溶接工ではなかった。)

☆2月21日、ウェスは昨年教会で知り合った (参考: スリーンの証言でウェスと初めて会った場所) ミシシッピー州カントンで1924年生まれ(多分)のスリーン・マイルス (Serene Miles) と結婚した。
スリーンの両親は1939年にミシシッピー州から引っ越し、40年にはブレイク通り320番地に住んでいた。
結婚後もウェス夫婦はアリントン家(母親夫婦)と同居したとある。
ウェスの結婚については、エイドリアン著では1941年とも読み取れ、多くのライナー・ノーツや書物では1942年とか、20歳の時とか諸説紛分だが、68年6月に亡くなったウェスの葬儀プログラムには1943年2月21日結婚、とハッキリと明記されている。
3月6日生まれのウェスだから、誕生日目前の19歳ということになる。
☆ウェスが初めて6弦ギターを手にした経緯について:
エイドリアン著の「ウェスは6弦ギターとアンプを350ドルで買い、クリスチャンのコピーを8か月間ほど練習し20歳を迎えるころには440クラブに出演した」、という記述を考えるとスリーンと結婚する前の1942年中頃に楽器を買ったことになる。
事実としては、1961年ラルフ・グリーソンのインタヴュー(ダウンビート誌7月20日号)記事で「僕が音楽を始めたのは結婚してからで、その2~3か月後にギターとアンプを買った」、と答えていることから、おそらくギターは1943年中頃に買ったことになる。
ただ、ウェスはインタヴューでは350ドルで買った、と自身は語っていない。
未刊の【モンゴメリ・ブラザーズ・ブック】でバディは「より高級なギターとアンプを300ドルで買った」と回想しているが、「より」とはギターを買い替えたという意味合いからウェスが初めて買った6弦ギターと300ドルで買ったとされるギターは別物として捉えられる。
それで初めて買った6弦がクリスチャン・モデルのギブソン “ES-150″ と言われ続けているが確証はなく、”Indianapolis Jazz/The History Press 2014” で次のような記述を見つけた。

「第二次世界大戦中、ギタリストのジョン・ブランチャードはアメリカ陸軍に従軍し、エンターテイナーとして特殊任務についた。戦後はインディアナポリスに戻り、インディアナ大通438-1/2番地の “P&Pクラブ” などで演奏活動を続けるなか、あるクラブでの出来事をユーモラスに回想している。
『若者が “ES-125” のギターを持ってクラブに入ってきたが、見るとペグのひとつが欠けており、弦を締め付けるためのペンチも持っていた。彼はギターを階段に置くと、私が最初のセットを終えるのを注意深く見守っていた。』
幕間に若者はブランチャードに近づき、自己紹介をしてこう告白した。
『あなたが2オクターヴ演奏するのをずっと聴いていましたが、どうやってプレイするのかわかりません。やり方を教えてもらえませんか』、ブランチャードは快く若きウェス・モンゴメリに応じコードも教えた。」というものですが、ブランチャードの話が45年とするなら、ウェスは確かに22歳の若者であり、買ったとされる6弦が新品であれ中古であれ42年製(43年は戦争で生産中止)までの “ES-125” という話は理に適っている。
ただ、この機種の1ピックアップはリア付けで46年に再生産されてから、P-90のフロント付けになったという事実からリア付けのギターをウェスが買う? という疑問は残るものの、結婚したてのウェスが300ドルの大金で買ったとも思えない。中古でも6弦でさえあれば練習できる、とみなされるほど、極めて有力な情報であることに疑いはない。

写真左:1942年製 ES-125 写真右:1940年製 ES-100
ES-125の前身は、1938年のエレクトリック・スパニッシュ、ES-100として発売した。
ES-100の名前の由来は、ギターとケースのセット価格が55ドル、アンプEH-100が55ドルで合計110ドルだが3点セット価格
で100ドルとし、ES-100とした。
1940年10月1日ギブソンのカタログに新しいEH-100が掲載された直後、価格が引き上げられ3点セットで125ドルで発売されたことで、ES-125と命名されることになった。

写真左:1946年製 ES-300
推測ではあるが、ジョン・ブランチャードはウェスが持っていたギターをES-100(ピックアップはフロント付け)と見間違えた可能性もあるとして、戦後となると45年以降にウェスが抱えているギターを写真で確認がとれるのは49年頃のハンプトン楽団での “ES-300” となる。
もうひとつの裏付けとなりえるモンクの証言からも、実際ウェスに金銭的余裕をもたらせたのは46年のスヌーカム・ラッセル等と一緒の長いツアーの後からとなる。それで買えたのが “ES-300” ではなかろうか。
当時ギター単体が160ドル、EH-275のアンプなどのセット価格で300ドルだが、ハンプトン楽団での写真にアンプはフェンダーの “デュアル・プロフェッショナル” が見られるので、それぞれ単体で買った可能性もある。
1944: 次に440クラブに出演した経緯について:
それから「6弦を手にしてからはクリスチャンのソロ部分をレコードから全てコピーするだけでクラブでお金が稼げた」とウェスは語っているが、8か月間とは言っていない。
単に8か月間とすれば、440クラブに出演したことを逆算すると20歳の誕生日はとっくに過ぎ43年の秋以降から翌年ぐらいに出演したことになる。
ところが、この440クラブ(Ruby’s 440 Club)はインディアナ大通440番地に44年6月、ルビー・シェルトンとパルマー・リチャードソンがオープンしたという記載(IPR:1944年6月17日号)があった。ウェスの440クラブ出演神話が崩れることになる。
グリーソンのインタヴューでウェスは「以前はテナー・ギターを弾いていたが、6弦を手にするまで本当のビジネスにはならなかった。6弦は僕にとって全てのスタートのようなものだった」と答えており、”Indianapolis Jazz/The History Press 2014″ によれば、ウェスは6弦を弾きこなすには多大な時間が必要であることがすぐに分かったようだ。「基本的な事が何も分からない」。コードの練習では「今までの人生で一番面倒くさい!」と嘆き、「もう嫌だ。情けない、悔しいよ」、と語っているのはクリスチャンのソロ・コピーだけでは稼げないということを思い知ったようである。

記事では、オープンした1ヶ月後、シェルトンはIPR誌に『才能のあるプレイアーを募集(TALENT WANTED)』と広告を掲載した事から、ウェスはおそらく44年7月以降、夏ごろにクラブで演奏したと思われる。
となると、結婚してから約1年半後になる。
事実として当時15歳だったウィルス・カークは「未成年でも入れる440クラブで、ウェスのプレイはミラード・メル・リー(p)ベイシー・クリスチャン(b)、ジョニー・ハリス(ds)のクウォーテットで初めて観た」、と述懐している。
この440クラブにウェスが出演契約を結んだ経緯について:
当時440クラブでバンド・リーダを務めていたピアニストのミラード・メル・リーの推薦という話と440クラブを経営していたルビー・シェルトン、そして440クラブで演奏しクラブのブッキングの多くを取り仕切っていたいたトゥーツ・ホイだったという話もある。
ウェスが言う「バンドの連中に曲やイントロやエンディングの演りかたも教わった」ということについて:
1961年のグリーソンのインタヴュー記事で「ミラード・メル・リー(B・Bキングと一緒に演っていたピアニスト)は自分のバンドを持っていたし、色々な面で僕を援けてくれた」、とウェスは答えている。
他にも、440クラブのオーナーでラグタイムのピアノを弾いたり、時にはヴォードヴィリアンもこなしたインディアナポリス生まれのルビー・シェルトンという話もあるようだ。
色んな話があるということはウェスは多くの諸先輩方々に教わったのも事実である。

9月、地元バンドのフォア・キングス・アンド・ジャックがインディアナポリスの南にある軍事基地キャンプ・アタベリーの第一劇場でエロル・グランディ(p)と共演した。
フォア・キングス・アンド・ジャックのメンバー、カール・メイナード、ジャック・ブリッジ、エマーソン・セノラ、ウィリアム・コックスにウェスも参加したとある。
(IPR:1944年9月号)
11月、フォア・キングス・アンド・ジャックはインディアナ大通(Indiana Avenue)536-1/2番地にあるラムブギー・クラブ(カフェともある)に出演した。
そのショーの広告写真の右端にウェスの姿が見られる。

ウェスが抱えているギターを拡大すると兄モンクから買ってもらった4弦テナー・ギターであることが分かる。
ギブソンのアーチトップ L-50 を基本にしたテナー・バージョン(サウンドホールのあるフラットトップもある) TG-50は、1934年から1957年まで製造販売されたものだが、これにピックアップとコントローラが取り付けられているのが確認できる。
ウェスは初めての6弦ギターを買ったあとも、場面によってはしばらくは使っていたとになる。
(参考:タイニー・グライムスが4弦テナー・ギターでプレイする映像があります。4弦ギターのサウンドを YouTubeで確認してください)
1945: ジミー・コーは第二次世界大戦(1943-1945)に従軍していた期間を除いて、そのキャリアの殆どをインディアナポリスで過ごしてきた。
45年中頃にニューヨークで除隊となりインディアナポリスに帰りリッツ(The Ritzy Rambler club)など地元のクラブで活動した。
ウェスは440クラブ出演以後、やはり地元バンドとの活動が広まるなか、二人は出会ったという。
リッツはインディアナ大通とセナート大通の交差する角に1944年にオープンしたが1957年11月に北ハーディング通り2648番地リッツ・ホテル内に移転し、リッツ・ラウンジと名を変えた。
1946: 1961年のグリーソンのインタヴュー記事でウェスは、「ブラウンスキン・モデルやスヌーカム・ラッセルと共にツアーに出たよ」と答えており、そのブラウンスキン・モデルは1925年以来、ダンス(当時の新聞広告写真ではストリップ)、コメディ、音楽、そしてアフリカ系アメリカ美人を売りにしたミュージカル劇団としてツアーをしていた。

1945年劇団はインディアナポリスのトムリンソン・ホールに出演したが同地のヴェテランのヴォードヴィリアン、ウィリアム・ベンボーが加わり46年1月に始まるオール・アメリカン・ブラウンスキン・モデルとして独自のショーを展開させた。
この時のピアニストが440クラブで世話になったミラード・メル・リーであったことから、ウェス自身参加したと答えているが地元新聞の記事や広告が見当たらない。
当然ながら駆け出しのウェスは記事扱いにならないでしょう。
写真はサンセット・テラスに出演のオール・アメリカン・ブラウンスキン・モデル(IPR:1946年1月5日号)
スヌーカム・ラッセル(Isaac “Snookum” Russell)は、1941年頃から管理されているファーガソン・ブラザーズ・エージェンシー(Ferguson Brothers Agency)の本拠地がインディアナ大通りにあり、サンセット・テラスなどインディアナポリスのクラブに出演することがしばしばあり、43年からは継続的にツアーを組んでいた。
当時ベーシストとして在団していたレイ・ブラウンはウェスについて「パート譜ではスヌーカムがウェスに指示をしていたが即座に聞き分けられる耳を持っていた。レコーディングもしたが78回転としてリリースされなかった。
ウェスとは2~3か月一緒だったがホームシックにかかり帰郷した」と語った。
レイ・ブラウンは高校卒業の翌年、46年の中頃(恐らく5月から12月の期間)にスヌーカム・ラッセルに在団しており20歳になってから(10月以降47年初め頃)ニューヨークに進出したとある。

8月9日、トムリンソン・ホールでナット・キング・コール・トリオの公演にスヌーカム・ラッセル・バンドも出演しているが11日の広告にはアースキン・ホーキンス楽団とラッセル・バンドが出演している。(広告はIPS:1946年8月4日掲載)
後日談(2019年リリースの、レゾナンス・レコード《Wes Montgomery/Back On Indiana Avenue: The Carroll Decamp Recordings》)のライナーノーツで、キャロル・デキャンプの弟子のブルック・ラインダラーは「キャロルはウェスが大好きで、いつも彼の話を聞かされていた。
それで若き才能あるウェスを連れナット・コールに合わせようと連れて行った。
ところが、ナットは読んでいた新聞から目を離すことなく、興味も示さなかった」という。それはナット・コールがインディアナポリスに来演したときで場所もどこだったか分からないとのことだが、ここに広告で確認できた。
ただ、この時代のナット・コール・トリオのバックはギターとベースでそのギタリストとして鎮座していたのは偉大なオスカー・ムーアだったと思う。ナット・コールの無視がウェスにとって不運だったとは思いたくはない。
それでウェスがスヌーカム・ラッセル・バンドとツアーにでたのはこの後と思われ、モンクは「ウェスがスヌーカムのバンドを辞め母親の実家戻ってきたときその変貌ぶりに驚いた。スーツを着こなし、革のバックにダイアの指輪、金のバンドの時計、大きなカフスボタンに髪の毛はコンクにしていた。
この時ミュージシャンとして成功した姿を見て俺は誇りに思った」と語っている。
1947: この頃、ウェス夫婦と子供、そしてアリントン家(母親夫婦)はホウヴイル地区から東側、つまりインディアナポリスのダウンタウンにあたるコーネル通1217-1/2番地(現在は州高速道路65号線と70号線が分岐する手前のミキシング・ボール・インターチェンジの下あたりになる)に引っ越した。2階建ての家は2世帯住宅として登記された。
そのモンゴメリ家とアリントン家(母親夫婦)の住宅の裏側は、シカゴ・インディアナポリス・ルイヴイル鉄道(両都市間の中間にモノンという街があり、その地名から通称モノン鉄道と呼ばれた)が敷かれてあり、それを利用する倉庫が散在し石炭や材木などの置き場となっていた。が、閑静な住宅地域でもあった。
1948: ライオネル・ハンプトン楽団一行は4月10日カーネギーホールでのコンサートで5つのビ・パップと題し(Be-Bop, Re-Bop, Oo-Bop, Zoo-Bop, Ee-Oo-Bop)出演する中、インディアナポリス州福利厚生委員会は5月14日から18日にかけで5つの慈善プログラムを計画しており、ハンプトン楽団の参加要請を行った。

このプログラムは、ポール・C・シュルテ大司教の後援により、インディアナポリスのフォールクリーク・パークウェイとブールバード・プレイスにある40区画に建設されるカトリック信者の青少年コミュニティ・センターのためのもので、そのうちライオネル・ハンプトン楽団は、5月15日と16日に北ペンシルヴアニア通り711番地にあるアーモリー(現在もティンダル・アーモリーとしてインディアナ州軍師団の本拠地でボクシングの試合など限られたイベントに使用されている)に土日の2日間出演した。
(広告はIPS:1948年5月12日掲載)

20時開演、WIBC放送局は20時30分よりラジオ中継したが、土曜はダンス・ショーのバックで演奏した。(IPS:1948年5月17日号)
実は「ウェスはハンプトン楽団がインディアナポリスにツアーで来た時オーディションを受け即日入団した」とされるのはこの機会を逃さなかったのですが、前ギタリストのビリー・マッケルが退団したことでハンプトンがオーディションをしたという記事はなかった。
ただ、巷ではハンプトンが新人を募集していると言う噂で持ちきりであったらしく、妻スリーンは「主人はオーディションを受けるのに少し不安を抱いていたようですが、とにかくトライしてみることにしたんだ。といってその日のうちに旅に出ました」と回想し、みんなが驚くなかインディアナポリスをおそらく5月17日に出発したとされる。
8月、18歳のバディは、一年前に姉のアーヴェナ(レーナ)からF#のキーを習ったことををきっかけにピアノを独学で弾き始めていたが、ブルーズ歌手のジョー・タナーでデビューを飾る。
そのあとジミー・コーが率いるバンドで初めてのツアーに参加した。
「ジミーはブルーズ・ピアニストを連れて行くはずの予定が合わなかったことで私に誘いがあり、まだ半年くらいしか弾いていなかったのに、それでもいいと言ってくれたので依頼を請けた。それが私の最初のツアーでおよそ6ヵ月ほど同行した。楽しくていい経験になったよ。」
1997年バディは、「たしか48年にタイニ・ブラッドショーのツアーに我々が参加したと思う。」 と回想している。
ブラッドショーは多彩な才能の持ち主でジャズ、ブルーズを始め、のちにロックン・ロールにも大きな影響をもたらせた人物。
9月10日、インディアナポリスでアタックス・オーディトリウムのジャズ・コンサートがクリスパス・アタックス高校の講堂で開催された。
第一回目のコンサートはインディアナポリスで活動するミュージシャンによる出演でオーデイションに合格した人達でグループ出演した。
その中にギターのアレックス・スティーヴンスを初めモンクはベースでバディもピアノで参加した。
ここで、ベーシストとして初めてモンクの名前が出てきた。10代のころ、彼はウェスと同じくギターに興味を持っていたが、その後楽器に触れることなく仕事に専念していたと思われる。しかし、兄弟二人がギタリストとして活動するのを気がねて、ウッド・ベースの練習に取り掛かった。
彼は、「弾き始めたのはハンプトン楽団に入団する5年前だった」というが、モンクも確か楽譜が読めなかったのでやはり先天的な才能があったにしても数か月で参加したことになる。

9月17日、ライオネル・ハンプトン楽団のニュー・ミュージカル・シリーズは毎週ゲストを迎えてインディアナポリスの民間ラジオAM局WIBC-Mutualで夜7時30分から8時まで放送された。
これはIPS紙のラジオ番組欄で11月の下旬まで掲載確認できたが、Mutualとは1935年から始まったMBS(Mutual Broadcasting System)のほか有名3局が結ぶ全国総合ネットワーク・システムにより民間放送局にも配信できることになった。
(参考:近年私家盤として見られる48-49年のハンプトン時代のウェスのエア・チェック盤の音源もこのことからどのエリアからでも容易に録音できたということになる。)

12月、デトロイトのオリンピア・スタジアムで大晦日コンサートに出演。
ヒット曲にちなんで、ライオネル・ハンプトン・フライングホーム・楽団と紹介されている。
ダンシングは午後9時から午前4時までとあるが共演のランキー・ボウマン楽団と思われる。
当時このデトロイトでケニー・バレルの演奏をウェスがちょくちょく見に来ていたという後日談で、逆にケニーがウェスを見たというのはこの頃の話でこのオリンピアでのハンプトン楽団の一員としてだったという。
1949: 1月、モンクはBe-Bop協会が主催するジャズ・アット・ジ・オーディトリアム(Jazz at the Auditorium)のジャズ・コンサートに参加した。
「アロンゾ・プーキー・ジョンソンはテナーサックスに持ち替え、リズムセクションはインディアナポリスB.S.I.(Bebop Society of lndianapolis)のメンバーで、いまクラブ・サヴォイに出演中のウィリス・カーク、アンリでピアノ演奏しているカール・パーキンス、ベースはトロピック・クラブのビル(モンクの通称なのか?)モンゴメリです」と掲載されているが、他にもジョーダン音楽院の学生やヴォーカルも共演したとある。(IPS:49年1月21日記事)
モンクは東10番通2039番地にあるトロピック・クラブで長期の出演契約を請け、1952年8月同クラブの出演ではバンドに二人いる黒人の一人とある。(のちの54年3月にウェスもこのクラブに出演する)
1月20日、ハンプトン楽団はワシントンD.C.のアメリカ合衆国議会議事堂のイーストポルティコで行われた大統領ハリー・S・トルーマンの就任祝賀会に出演した。
ハンプトンは「コンサートやレコーディング、それにラジオ中継やらで我々がブラック・ミュージックを広めていったことにより、人種(白人と黒人)の境界線を無くす手援けをした、といってよいと思うんだ。私が最も光栄に感じていることはトルーマンの就任式典に招待され、プレイしたことなんだけどブギ・ウギ風にアレンジした〈ミズリー・ワルツ〉でトップを飾ると大統領は気も狂わんばかりに跳びあがって大手を振っていたし、会場は大いに沸き立っていたよ。
トルーマンは在職中、人種差別撤廃をスローガンに力を尽くしてくれ、ジーン・ケリーなど多数の白人パフォーマー達と一緒に、リナ・ホーンと私をその式典でプレイさせることから始めたんだ。」と語っている。(ワーナー・ブックス“Hamp”自叙伝より)
1月24日と28日、ハンプトン楽団は録音禁止令が解けるとニューヨークのデッカ・レコードで”Chicken Shack Boogie” 他6曲をレコーディングした。ウェスにとっては初めての公式しコーディングとなり、以後4月、5月、12月とレコーディングが続行された。
(参考: AMF[アメリカ音楽家連盟]は、1942年から44年にかけて録音禁止令を出したことがあり、1948年は2回目の禁止令により、1月1日から12月14日までテレビや映画界にたいしてもストが行われていた。趣旨はミュージシャンの失業補償制度の要求という。)
3月、ハンプトン一行はミシガン州デトロイト市にあるフォックス劇場に11日から17日の一週間出演した。その時の映像が唯一ユニバーサル・インターナショナルの制作で残されていた。

《LIONEL HAMPTON AND HIS ORCHESTRA/Milan Jazz MV015》今でいうテレスクリプション(劇場やテレビで制作されたショートフィルム)され1992年フランスでビデオ発売さたが、
歌とダンス、それに時事風刺劇などを組み合わせた《Name Band Musical》という短編シリーズに、ライオネル・ハンプトン・オーケストラのレヴューをフィーチャーしたものとなる。
まさに、ハンプトンの演奏スタイルそのものがショーとしてその多才ぶりを発揮していことからの起用のようにも感じる。
4月から5月、写真はニューヨークのストランド劇場に出演したハンプトン楽団でのウェスで、抱えているギターは “ES-300” ですが、左端に見えるるアンプはレオ・フェンダーの最初のアンプ・デザインのひとつである “デュアル・プロフェッショナル” の1946-47年モデルに見える。



1947 Fender Dual Professional Tweed Tube Amplifier 2×10, V Front Super
46年後半にリリースされたこのモデルは、当初 “デュアル・プロフェッショナル” と名付けられフェンダー最初の量産アンプとなった。
パイン材キャビネットに10吋スチスピーカー2基を搭載したが、47年後半までに “スーパー・アンプ” と改名された。
際立った特徴は、一般に “Vフロント” として知られているとおり、中央にクロムメッキの金属ストリンガーを備えた角度の付いたフロントキャビネットである。
ウェスがフェンダー製のアンプを初めて使ったモデルとなる。
5月、20日から25日にハンプトン楽団はデトロイトのパラダイス・シアターに出演。

7月10日、1945年から58年までの14年間、毎年夏になると、ロサンゼルス南部にある21,000人収容のリグリー・フィールド球場で、”キャバルケード・オブ・ジャズ” が開催された。
その第5回にハンプトン楽団が出演した時の広告。
ウェスはハンプトン楽団と全米各地を巡演する中、ロス・アンジェルスのセンティネル紙が「西海岸で最も有名なジャズ・イヴェント」「全米で最も素晴らしいジャズ・イヴェントのひとつ」と評し、何万人ものアンジェレノス(ロサンゼルスが出生地の住人)が参加した報じた。
☆インディアナポリスの市民録にはウェスがコーネル1217-1/2番地(1/2とは二世帯住宅)の世帯主として記載されてる。
1950: 1月26日ニューヨーク: デッカ・レコードでの最後のレコーディングのあとウェスはライオネル・ハンプトン楽団を退団しインディアナポリスに帰郷した。
(参考: はっきりとした退団日は不明だが、3月23日のレコーディングではルディ・メイソン(g) が、7月以降ビリー・マッケルが復帰している。)
5月、ウェスらの母親、フランシス・アーリントン亡くなる。

9月3日、インディアナポリスの Be-Bop協会は毎年恒例の第5回ジャズ・アット・ジ・オーディトリアムを北ウエスト通り653番地にあったフィリス・ウィートリーYWCAの講堂でクリスパス・アタックス高校の音楽生徒のためにジャズ・コンサートを開催した。
主催はドラマーのウィルス・カークが会長を務める Be-Bop協会に「300人もの観衆で注目は元ライオネル・ハンプトン楽団に所属していたウェス・モンゴメリがリーダのクウォーテット(ウェス、モンク、バディ、ウィルス・カーク)で、いつも見たことのあるホットな演奏でした。
収益は音楽生徒の運営費に使われます」と掲載された。
デューク・エリントンのアレンジャーのひとり、ビリー・ストレイホーンはこのモンゴメリ・クウォーテットを絶賛したという記事も書かれてある。(IPR:50年9月2日号記事)

ジャズ専門のアンリズ・ラウンジに出演の左からウィルス・カーク、モンク、ウェス、バディのよく見かける写真ですが、恐らく50年初期と思われる。
ウェスは “ES-300” を抱えており、足元にはアンプの前面をバディに向けた “デュアル・プロフェッショナル” 1946-47年モデルが確認できる。
1951: 1~2月、ハンプトン楽団を退団したウェスは帰郷後、最初に就いた仕事がおよそ56年頃まで続いたP.R.マロリーというバッテリーと電気部品の会社で溶接工とされてきたが・・。
市民簿には上段から同会社で51年にカフェテリアの従業員として働き、中段には54年にキーパーになったとある。
55年は見当たらず下段の56年は同会社でラボ(実験室)との記載があるが職種は不明。
帰郷後の仕事はいずれも手指を気遣っての職種に就いていたと思う。



☆音楽以外の仕事で次に書かれているのが、1957-58年、ウェスはインディアナポリスの16番通りから2~3ブロック離れたところにあったポークス・ミルクという牛乳の生産と配達の会社(記載はないが多分配達運転)で働いた。そのためウェスがミュージシャンとして初めて市民録に見られたのは1959年のことであった。

☆バディは、朝鮮戦争(1950-53年)のなか51~52年のあいだ徴兵され兵役を勤めるが、譜面が読めないことから陸軍バンドには入れなかった。
除隊後、ラリー・リドレイに話した逸話が「同じ軍隊に凄いアルト吹きがいてね、一度聴いてみなあいつは別格だよ」というので名前を聞かれて「ジョン・コルトレーンだよ」とバディが言った。
(参考: この話でコルトレーンが入隊した時期は1945-46年にかけての1年間、ハワイの真珠湾にある海軍であったことから、別の話ではないかと思う、もし同じ時期ならばバデイは15歳ごろなので徴兵義務はないはず(当時アメリカが第二次世界大戦に参戦した時期の徴兵義務は18歳から)であった。

1952: 3月、アルトサックスのジミー・コーは 毎週水曜日の夜にヘンリズ・ラウンジに出演し、エロル・グランディやウェス・モンゴメリらがバックで出演したと書かれている。
(IPR:1952年3月29日号 P12)
☆ウェスはハンプトン楽団を辞めてから暫くは音楽活動をしなかったという通説はあるが、と言っても全く休止していたわけでもなく地元新聞のIPR紙は同紙が主催のファン投票によるミュージシャンやシンガーなどのコンテストで、ギタリスト部門1位を獲得していた。
授賞式は後日サンセットテラスのボール・ルームで開催されたとのこと。
☆49年1月からモンクは東10番通2039番地にあるトロピック・クラブに長期出演していたが、52年8月、同クラブにロジャー・ジョーンズ(tp)楽団が出演したとき、参加した2人の黒人ミュージシャンのうちの1人だったようです。(1954年3月にはウェスもトロピック・クラブでジョーンズ(tp)と演奏している)。

☆7月13日(日)の午後2時、ウェスは州立中央病院の芝生庭園で精神科患者を観衆に90分間のコンサートを催す。
(IPR:1952年7月5日号)
このイヴェントは、マリオン郡精神衛生協会のボランティア組織であるゴールド・レディースの病院娯楽委員会によって企画されたものであり、市長の妻であるアレックス・クラーク夫人がコーディネータを務めたとある。
ウェス・モンゴメリ・クウィンテットのメンバーは、ウェスのリーダにキャロル・スミス(p)、ロバート・ソニー・ジョンソン(ds)アロンゾ・プーキー・ジョンソン(ts)、ビル・モンク・モンゴメ
リ(bs)と予告掲載されている。
(参考: キャロル・スミスとはキャロル・デ・キャンプですが、この時期モンクのことをビルと書かれている記事が多々見られる)
演奏は他に、モダン・トーンズ・クウォーテットと歌手のスコッティ・カミングスが参加とある。
新聞写真ではモンクに影がみられることから室内演奏で7月13日以前の同じウェス・クウィンテットの写真が使われたことが分かる。

予告どおりコンサートは芝生庭園でおこなわれた。
演奏風景は、レゾナンス・レコード《Echoes of Ind-iana Avenue》のライナー・ノーツでは、50年代中頃のモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテット、と説明されている。
しかし、ウェスはハンプトン楽団でも愛用の”ES-300″を抱えていることや、新聞写真での彼らの服装と見比べてもやはり52年の撮影と断言できる。
となれば、モンゴメリ・ジョンソン・クウィンテット結成以前のウェス・モンゴメリ・クウィンテットとなる。仮に50年代中頃とすれば、もしかして”L5-CES”を抱えていたかも知れない。
この写真では、ドラマーは49年にレニー・トリスターノのレコーディングに参加したインディアナポリス生まれのハロルド・グラノフスキー (harold granowsky)であることからソニー・ジョンソンの代演に起用さたと思われる。
☆モンクのライオネル・ハンプトン楽団入団時期に関して多くの記事に1951-53年説が見受けられることと、合わせてエレキ・ベースの使用について検証する。

1951年12月にアイオワ州の新聞記事に「非常に低い音のベース・ギター」と書かれたのがフェンダー・プレシジョン・ベースで「ジャズで試験演奏されたのが最初かも知れない」と掲載した。
1952年5月、ピッツバーグ・クーリエ紙は、「ライオネル・ハンプトンは、常に現代的なサウンドで何か新しいものを探していたが、ベース・バイオリンに取って代わるフェンダー・ベースの導入により、より重くより充実したサウンドを与える新しい電子楽器である」と報じ、さらに “耳新しいこと” として「ライオネル・ハンプトン楽団のベーシスト、ロイ・ジョンソンはリズム・セクションに重厚なサウンドをもたらす新しいエレクトリック・ベース、フェンダー・コントラバスを披露しています。
ジョンソンはジャズでこの楽器を初めて演奏したミュージシャンで、ダンスバンドで人気のある面倒なベース・バイオリンに代わる楽器として期待されている」と言う新記事を見つけた。
モンクが最初の人ではなかったようでこの新聞写真は暗くて分かりづらいがロイ・ジョンソンである。
☆モンクの入団時期について決定的と思われる記事もあった。
IPR紙(1952年12月6日)で、記者のボブ・ウォマックは【ミュージカル・アップビート】のコーナーで「私は感謝祭(11月の第4木曜日)の夜に人生最大の驚きを受けた。
最近、最もホットなアトラクションで人気のあるクラブを探るため、サンセット・テラス・ボールルームに行った。するとライオネル・ハンプトン楽団で2の新人がプレイしているが誰だと思いますか? 地元で人気のドラムスのソニー・ジョンソンとベースのモンク・モンゴメリです。
ハンプトンに “新人ドラマー” の腕前はいかがですかと質問すると “彼は最高だよ” と答えてくれた。ただ、ソニーは翌年の1月に退団し姉のデビー・アンドリュースと共にセクステットのフロントとしてツアーに出ている。(Jet;1953年1月15日)
ほかにも、ゲスト・アーティストとして登場した地元の大物たちの中には、プーキー・ジョンソン(ts) デビー・アンドリュース、ヘレン・ウォーカー(vo) それに元ハンプトン楽団に在籍した偉大なマエストロのウェス・モンゴメリとアール・ウォーカーも出演していた」と掲載している。
このことから、モンクの入団は1952年8月トロピック・クラブ出演以後から11月の間と言える。

モンクがエレキ・ベースを練習し始めたのはハンプトンに入団後のことで、当時、ジャズ評論家のレオナルド・フェザーはフェンダー・プレシジョンベースを「センセーショナルな楽器の革新」と評したが、近年「従来のアップライトに代わる小型でパワフルな楽器ではあるが、フェザーが予言していた”低音革命” というほどのことは少なくともジャズでは起こらなかった」と、皮肉る記事もある。
☆クウィンシー・ジョーンズは「僕がハンプトン楽団に(1951年-53年)に在籍したときモンクも一緒に演っていた」と自身の回想にあるが、括弧書きされているのは彼自身が在籍した期間であって、モンクも同じ期間在籍したということではない。
この期間に公式レコーディングされたディスコグラフィを見ても、ほとんどのベーシストはロイ・ジョンソで一部レイ・ブラウンなども見られるが、モンクが登場するのは非公式なエア・チェックデータで主に53年9月の欧州ツアーの期間である。
52年7月13日の州立中央病院のコンサート写真で、モンクはアップライト・ベースで参加している事実や他の活動履歴を見る限り1951年はありえない、あえて標記するなら “1952-53年” となる。

12月、アヴェニュー劇場で大晦日のコンサートにウェスと他の出演との広告。(IPR:1952年12月20日)
1953: 1月5日(月)ジョージズ・バーのオーキッド・ルームにジミー・コー等の出演広告。ウェスはハンプトン楽団の卒業生と紹介されている。(IPR:1953年1月3日)

4月、ハンプトン楽団がバージニア州南東部にあるノーフォークでの演奏のエアチェック・データにはアート・ファーマ、クウィンシー・ジョーンズ等と共にモンクはトム・モンゴメリ(e-b)として記載されてある。62-63年に同姓同名のドラマーがいたが詳細不明。
9月、ハンプトン楽団一行は5日6日のノルウェイ公演を皮切りに、12月4日バリでの最終公演のあと、12月10日にニューヨークに帰国した。この欧州ツアーにはアート・ファーマー、クウィンシー・ジョー
ンズ、クリフォード・ブラウン等も参加したが、ここにモンクもエレキ・ベースを持ち込み、同行したという通説を前置きに・・。
IPR紙10月24日号には、元ハンプトン楽団のアール・フォックス・ウォーカーがベルギーのブリュッセルでツアー中のバンドの素晴らしい成功を知らせるメールがモンクから届いた。というのである。
ブリュッセルの公演は9月20日であった。
次のIPR紙12月5日号には、ハンプトン楽団のベーシスト、モンク・モンゴメリが数日前にヨーロッパから帰郷した。モンクはハンプトン楽団を辞め自分のコンボを結成する予定である。モンクは新しい編成でウェスとバディ・モンゴメリを起用する予定だ。クレイジーなサウンドになるはずだ。というのである。どうも楽団一行と帰国したようではなさそうだ。
欧州ツアーのディスコグラフィも不確かな部分はあるものの、10月のベーシストが不明で11月30日のパリ公演ではバディ・バンクス(b)との記載がある。
モンクは退団後、すくには帰郷せず2~3か月シアトルに滞在したという話を合わせると、もしかして10月には退団していたのではないか、と推測できる。

スウィングさせることが出来るんだ。アップライト・ベースでは代用はできないだろうしこれまで5年間弾き続けてきたが、このエレキ・ベースをマスターするにはまだまだ時間はかかるよ」とモンクの証言がある。
モンクは最初、エレクトリック・ベースの使用に消極的だったにもかかわらず、エレクトリック・ベースでジャズ録音した最初のベーシスト(ロイ・ジョンソンでの録音はない)となり、退団後の1953-54年録音のプレステイジ盤《アート・ファーマー・セプテット》の4曲で演奏している。
(参考:写真左はギターのビリー・マッケル、右にサングラスをかけフェンダーを抱えたモンク。欧州ツアーでモンクは終始フェンダーを使用しており、正式録音でない音源が後年リリースされている)
9月、ウェスは前年に続き地元新聞のIPR紙主催のファンによる「年間音楽家投票」の全14部門のギター部門で断トツの1位を獲得した。授与式ではとくに演奏したという記事はない。
この年の5月16日号の同紙でギター部門の中間発表を見ると・・
Wes Montgomery –670, Paul Weeden —–210, Mopps Marshall –90, Specks Maynard –50,
John Blanchard—40, Bill Jennings —40, とあり、5位にあのジョン・ブランチャードが・・戦後45年のあるクラブで、若きウェスに2オクターヴやコードを教えた、というギタリストです。
☆バディは除隊後、ハンプトン・ファミリィ・バンドに入団、シンシナティにあるコットン・クラブで働く。
このバンドの女性ドラマー兼シンガーのポーラ・ハンプトンの叔父にあたるのが、スライド・ハンプトンであり、彼女の母アレトラ・ハンプトンはインディアナポリスでハンプトンシスターズを先導していた。
1954: 3月、ウェスは人気のバンド・リーダ、ロジャー・ジョーンズ(tp)とトロピック・クラブに出演。
共演はディック・コーン(p)、チャーリー・マストロパオロ(ds) ウィリー・ベイカー(cl, ts)で、ジョーンズは、インディアナポリス音楽家協会(AFM)第3支部のロド・ウィルソン書記長によって、ビジネス・エージェントの新アシスタントに任命された。(IPR:1954年3月13日)
この時の逸話: 地元ラジオ放送局の司会者ディック・バックレイは放送終了後の真夜中にトロピック・クラブに出演後の彼らをスタジオに招き入れての非公開のセッションを持ち掛けた。
「ウォーミング・アップの間に徐々に盛り上がっていたが、マイクが入った途端にウェスはちょっとしたソロも弾こうとしなくなった。いかに説得しても最後まで彼の気持ちを変えることができず、ほんの2~3コーラスを弾いただけだった。何も起こらなかったのだ。あまりにも神経質で緊張していたのであろうか、あの偉大なセンスを生み出しているプレイは影を潜め、単にどこにでもいるギタリストのようであった。マイク負け(あがり症)というのを聞いたことはあったが、あの夜のウェスと同じくらい酷いものは見たことがなかった」と言い、何曲かは録音したということが《モンゴメリ・ブラザーズ・イン・カナダ》のライナー・ノーツに書かれている。
4月、バディはR&Bのハンク・バラード・アンド・ザ・ミッドナイターズのレコーディングで〈Sexy Ways〉一曲にヴァイブで参加した。
参考CD:《Sexy Ways/The Best of Hank Ballard and the Midnighters》
☆本格化し始めたウェスの音楽活動はこの年の後半からでターフ・バーが拠点となった。1919年8月にフレッド・ジュネマンは「常に音楽が流れています」という触込みでェ・オート・ストップをオープンしたが、1925年数軒先にのちのターフ・バーとなる場所に大使館レストランをオープンした。

1934年にジュネマンが亡くなった後も大使館レストランではミュージシャンやダンスを上演し続けたが、1939年5月にオーナーが変わりターフ・バーとなり、レストランやサロンとして営業した。
そして1953年5月にオーナーがミルドレッド・トンプソンに変わり再びミュージシャンを起用するようになった。
写真は当時のマッチで建物の全景が分かる。
【モンゴメリ・ジョンソン・クウィンテット】が結成された経緯はバディの未刊【モンゴメリ・ブラザーズ・ブック】に「僕は除隊後、そして姉のリーナがクリーブランド大学を卒業し暫くニューヨークに住んだ後、インディアナポリスに帰った時、モンクも2年間活動したハンプトン・バンドを辞めて帰郷したのがほぼ同じ頃だった。
3人とも独身だったので(参考:54年春頃の話になるがモンクも独身というのは離婚してたの?、リーナの回想によるとかなりのプレイボーイだったという)北ケンウッド大通3200番地に玄関が二つある2世帯住宅で共同生活を始めたんだ。僕はすぐさまアップライト・ピアノを買ってモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットのリハーサルを演た。
メンバーは僕たち兄弟にアロンゾ・プーキー・ジョンソン、ロバート・ソニー・ジョンソン、他にも地元ミュージシャンだけでなく全米各地の有名ミュージシャンが集まりジャム・セッションをしょっちゅう演っていた。
全員昼間の仕事にも就いていたが週5日はここでリハーサルし、夏頃にはモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットとしてターフ・バーに出演した。
スピード・ウェイの近くで交通の便はいいが景気は良くなかった。我々の友人がオーナーのトンプソンに掛け合ってジャズ・バンドの出演交渉にあたってくれたんだ」とある。
(参考: 実は、モンゴメリ・ジョンソン・クウィンテット以前にソニー・ジョンソンはモンクを含むウェス抜きのバンドとしてソニー・ジョンソン・クウィンテットを結成させており、ターフ・バーにも出演していた。友人による出演交渉では初め人種問題や今出演のバンド解雇問題もあったが、既に地元界隈で有名なウェスも引き入れての出演なら客寄せが叶うことで交渉が成立し、新しくモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットが誕生したことになる)
当時インディアナポリスもジム・クロウ(人種隔離政策)制度が酷く、ターフ・バーも黒人のショーは見せながらにも黒人客は入店させなかった。
店は景気が悪く倒産寸前だったが既に地元では人気があったウェスとソニー・ジョンソンを含むモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットの出演はたちまち行列ができるほど連日満員となった。
モンクは「にも拘わらず我々バンドの連中は裏口から出入りさせられた」と言い「生まれ故郷とは言えこれほど住みにくいところはない、何処へ行っても差別はあるが変わりのベーシストが見つかればニューヨークへ行くつもりだ」、といいながらにも56年(多分秋ごろ)まで地元で活動し続けた。

☆54年6月のターフ・バーの広告で、デューク・エリントン楽団の元専属ヴォーカリストで有名なデビー・アンドリュースが出演。デビーはソニー・ジョンソンの3歳年上の実姉。
この広告ではまだモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットは結成されていないらしく、ソニー自身のバンド、【ソニー・ジョンソン・クウィンテット】として、モンク(e-b)、プーキー・ジョンソン(ts)、そしてインディアナポリスでは有名なジーン・ファウルクス(tb)、キャロル・テキャンプ(p)らで出演している。
6月の新聞広告での出演は3回あり全てソニー・ジョンソン・クウィンテットであった。

だが8月25日のIPS紙には【モンゴメリ・ジョンソン・クウィンテット】が出演したという広告がある。
「モンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットは、西16番通のターフ・バーに毎晩登場します。
メンバーのうち3人は、以前はライオネル・ハンプトン楽団のメンバーでした。」
新聞広告中央に【MONTGOMERY・JOHNSON QUINTET】とある。
恐らく、結成は7月か8月頃と思われる。
以降、9月、10月、12月の新聞広告は全てモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットで出演しているが、ソニー・ジョンソン・クウィンテットの広告はないものの別活動していた可能性はある。
☆IPS紙広告では同年10月30日には元ライオネル・ハンプトン楽団の3人、ソニー、モンク、ウェス、のモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットが、ラジオ・テレビでおなじみのジョージ・ディック(vo)のバック演奏をしたという記事がある。
☆バディは、ウェスがもとハンプトン楽団で同籍したロイ・ジョンソン(b)のクウォーテットにピアノで参加したとある。

1955: シンガーでピアニストでもあったインディアナポリス生まれのフロ・ガーヴィン(Flo Garvin/1927年-2005年11月19日没)は16歳の時にインディアナ・アベニュー近辺のクラブで歌い始めた。
51年に、インディアナポリスのWFBM(現 WRTV)-TVにアフリカ系アメリカ人として初めて出演し、街中のテレビ視聴者を驚かせた。
52年、シンシナティのコットン・クラブでジミー・コー楽団と歌っていたとき、キング・レコードにスカウトされ2枚のレコーディングを行った。
その後、1950年代中頃には、WFBM-TVのチャンネル6で 自身の司会による “センチメンタル・ジャーニ” という音楽番組を任され、ウェス・モンゴメリ、フェンダー・ベーシストのモンク・モンゴメリ、ピアニストのバディ・モンゴメリ、ドラマーのソニー・ジョンソンをバックに13週間にわたり出演した。
サックスのプーキー・ジョンソンの名前はないがモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットとなるメンバーですが、このTV出演でウェスはインディアナ・アベニューのジャズ・シーンから現れた最大のスターとなった。

4月、IPS紙の広告にクラブ・エマーソンが28日にグランド・オープンさせた広告によると【テレビスター】と書かれたモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットの音楽に合わせて踊ろうとある。
フロ・ガーヴィンの “センチメンタル・ジャーニ” という音楽番組の年代が特定できなかったがこの広告でウェス・モンゴメリ等がテレビ共演した年代が推し量ることができた。

5月6日から8日、モンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットは北ニュー・ジャージー通502番地にあるミュラ劇場(現在のオールド・ナショナル・センター)でインディアナポリス交響楽団の常任指揮者であるレナート・ポチーニが指揮するトランペット・スター、ボビー・ハケットのポップ・コンサートで共演。
(IPS:55年4月号)
ウェスのミュラ劇場での足跡は、1967年5月7日にキャノンボールと共演し、また単独のフィーチャリング・パフォーマーの一人として出演した記録もある。

5月28日、インディアナポリスの多目的アリーナのコロシアムで「キッズ大作戦」と銘打ったショーが行われた。
地元で人気のスウィング・コンボ、モンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットが、アーサー・ゴッドフリーの3人のスター、カーメル・クウィン、フランク・パーカー、トニー・マーヴィンとともに出演した。
アーサー・ゴッドフリーはCBSのラジオ・テレビ放送局のエンターテイナーで、 “アーサーゴッド・フリータイム” という自身の番組でもタレントのスカウトを行っており、その3人を出演させた。(IPR:1955年5月28日)
この共演がきっ掛けで6月にニューヨークでモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットは彼のオーデイションを受け、そのあとクウィンシー・ジョーンズに引き継がれエピック録音へと繋がったと思われる。
6月15日、モンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットのウェス・モンゴメリ(g) モンク・モンゴメリ(b) バディ・モンゴメリ(p) アロンゾ・プーキー・ジョンソン (ts)ソニー・ジョンソン(dr)は、ニューヨークでクウィンシー・ジョーンズのプロデュース依頼を受けCBSコロンビアの新しいレーベルとして発足したエピックで録音した。
当時、新人22歳のクウィンシーは「CBSが黒人向けののラジオ番組用に新しくR&BのレーベルとしてEpicを立ち上げた。ただ3分以上録音できないモノラル・レコードをプロデュースするという制約があり、高水準なアイテムを4つ仕上げなければお払い箱になるんだ。
このモンゴメリ兄弟たちの録音はテスト企画ということで経営者に説明したが、しばらく時間がかかったことを覚えている。
承認を得られたことで彼らに電話し、インディアナポリスからニューヨークまでたった一日のことなのに車で来てもらった」と述懐しており「ウェスのプレイはまだ発展途上だったが、彼独特の奏法とサウンドは今聴いても誰も真似できない。
当時私なりに感じたことがあったがそれ以上のことは考えが及ばなかった」と言う。
考えるに、この話には彼の悔やみが感じとられれ、若干路線が違うということもあったが”3分以上録音できない” という制約に縛られていたことがお蔵入りになった原因だと思う。
クウィンシーというより経営者のマーヴィン・ホルツマンに見る目がなかったのだろう。
それは、2014年レゾナンス・レコードより《Wes Montgomery and The Montgomery-Johnson Quintet》で発掘リリースされその全曲が明らかになったが5曲中4曲が3分越えであった。
7月27日、ミュラ劇場でのロック・コンサートはハモンド・オルガンのビル・ドゲットが主演で、デッカ・レコードのスター、アーサー・プリソック、R&Bドゥ・ワップバンドのザ・カウンツ等のなかにモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットも出演した。(IPR:55年7月号)




IPS新聞広告左からターフ・バーとして4月の掲載、広告2番目は7月掲載でそれ以降はターフ・クラブへと店名が変更された。。
広告3番目は10月のハロウィン・パーティの案内で、いずれもモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットとザ・カウンツとの共演がこの年の広告に多く見られる。
4番目の写真は同店で開催のハロウィン・パーティで右後部の帽子に眼鏡で変装したのがウェス。

写真は1955年4月の店名がターフ・バー最後頃のモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットで、ウェスが抱えているのは3本目のギブソンとなる “ES-175” P90のピックアップ1基搭載の1949-53年のモデルとなる。
ウェス自身お気に入りなのか1960年リヴァーサイド録音《The Incredible Jazz Guita》や共演盤の《Work Song/N. Adderley》《C. Adderley and The PollWinner》ジャズランド盤《West Coast Blues/H. Land》などで使用。
☆モンクはインディアナポリス市民録に1955-57年まで、西16番通2320番地のターフ・バーのミュージシャンとして記載され、北ケンウッド大通3048番地に住んでいた。1957年はバディもターフ・バーのミュージシャンとして市民録にみられる。

1956: ターフ・クラブ黒人客ボイコット事件(其の1):
2月14日、サラ・ヴォーンを初めカウント・ベイシー、ジョニー・スミス、レスター・ヤング、バド・パウエル他は街の中心にあるモニュメント・サークルの西側、北イリノイ通りに面したリリック劇場で開催された “バードランド・スターズ・オブ・56年” のコンサートに出演した。
(IPR:1956年2月14日広告)
(参考:リリック劇場はかつて1940年にはトミー・ドーシーのバックでフランク・シナトラがデビューを果たし、42年にはステレオ・サウンドによる映画を上映した最初の劇場として、またエルビス・プレスリーも出演した2年後の57年には〈監獄ロック〉で人気急上昇を得るなどしたが現在は駐車場となっている)
出演を終えた、サラ・ヴォーン、カウント・ベイシー、ジョニー・スミス等はモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットが出演しているターフ・クラブへ打ち上げにいった。
そのときの出来事は一生の思い出と語るバディは「それを知った僕たちはいつもより遅くまで演奏していると彼らがやって来るのが見えた。
するとドアマンが入店を拒否していたので、すぐに演奏をやめるとソニーの姉(3歳年上)で美人歌手のデビー・アンドリュースがその状況を見ていち早くドアマンに『お願いだからこの人たちを入れてあげて、有名なミュージシャンなんです』と説明するなか、続けて説明に入った彼らも悲壮な面持ちでした。ただベイシーだけ沈着冷静でしたがおそらくこのような仕打ちは何度も経験していたように思う。
このクラブのママはできた人なんだが、白人専用バーとして誇示しているのはマスターとスタッフなんだ。それで僕は、この店の繁盛は誰のおかげなんだ。じゃあ今晩かぎりで辞めるよ、と切り出したら、ママは『分かったは、ではテーブルを一つ用意しますからそこに皆で座ってね』と言ってくれたが、ジョニー・スミスは一心にウェスを聴きたくて、それにフランク・フォスターも同席したので、結果一つでは足りないので何席かをくっ付けさせたよ。
その夜は一大イヴェントになったね、ジョニー・スミスも演奏するし観衆は絶叫し続けたよ。最高の気分だった」と後年に語った。
(参考: バディの回想は全文ではないがフランク・フォスターやスタン・ゲッツの名前も出てくるがバードランド・スターズ・オブ・56年のコンサート記事には出演名がなかった。ちなみに同コンサート57年はサラとベイシーはインディアナ劇場に出演している)

写真は同年のターフ・クラブのステージで “MONTGOMERY・JOHNSON Quintet” の横幕にはメンバーの名前と使用している楽器のイラストが織り込まれている。
8月から11月にかけてこのターフ・クラブのライヴ音源が、2014年《イン・ザ・ビギニング/Resonance HCD-2014》で発掘された。
ここで珍しいことにウェスがグレッチ(1953-61 GRETSCH #6128 Duo Jet)のギターを抱えている。横にモンクのフェンダー・エレキベースも見える。

4本目となるギターは “L5-CES/ベネチアン・カッタウェイ/サンバースト・フィニッシュ”(ウェスが初めて手にしたL5)でワールド・パシフィック57年録音《The Montgomery Brothers and 5 Others》リヴァーサイド60年録音 《Movin’Along》、ジャズランド61年録音《George Shearing and The Montgomery
Brothers》などで使用。
ウェスがグレッチのギターを抱えている写真と比べるとステージの状況や彼らの服装が同じであることから同時期と思われる。
アンプは、53年頃からワイド・パネル(スピーカー上下に幅広のツイード・パネル))に変更された特徴が見られることから
スーパー・アンプを使ったと思われる。
☆9月になるとバディは15歳のころに憧れたライオネル・ハンプトンの影響をうけてヴァイブに専念する。
「55年に注文したヴァイブが届いたのは56年だった。すぐに練習に取り掛かった」と、バディの回想話からして、この9月に届いたのだと思う。
バデイは、これを機会にインディアナポリス・ジャズ・クウォーテットを結成した。
バデイ(vib)、アル・プランク(p)、ウェス(b)、ベニー・バース(dr)、モンクがベースで、ウェスがギターという構想はモンクがシアトルに移住する準備などで、結果、普遍的であっと思うが12月までの3か月間活動した。

56年12月22日、東10番通り2032番地にあるメイフェア・タヴァーンにバディとデイヴィット・ベイカーと思われるコンボにウェスが共演している。
“バディとベイカー・コンボ” は一時的であったと思うが、バデイはヴァイブ、ウェスはギターで出演したと予想される。現在はメイフェア・タップルームとして 再オープンしている。
1957: モンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットとしての活動が揺るぎ始めた原因は、既にシアトルに移住していたモンクが1月に、バディとドラマーのベニー・バースを呼び寄せ、そこでピアニストのリチャード・クラブトゥリーと合流しバンド活動のための準備を行ったことが起因となる。
それは、1月に結成されたマスターサウンズのドラムスであったベニー・バースの回想に注目していただきたいのですが、マスターサウンズの成り立ちについても触れてみる。
「インディアナポリスでのバディ・モンゴメリは私が知っている限り、最高と言われるピアノ・プレイアーのひとりであった。
しかし1955年もしくは1956年、彼はヴィブラフォン一式を揃え、自宅でその練習に専念した。
そこではヴィブラフォンにバディ、私がドラムスで、アル・プランクがピアノを弾き、ウェス・モンゴメリがエレキ・ベースを弾いた。
モンクはその時一緒ではなかったがウェスがエレキ・ベースを弾いているのを聴けるのは興味深かった。
(参考: モンクがいなかったのでこの時はウェスが代わりに弾いていたという意味合いが含まれており、それはモンクがモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットの一員でありながらにもシアトルに行ったり来たりで引っ越しの準備やライヴ出演の二重生活をしていたからだと思われる。)
何故ならウェスがソロで演奏したとき、まるでギターのようなサウンドでやって見せたからである。
自分たち(参考: 結成は1956年冬でマスターサウンズと名乗る以前)のことをインディアナポリス・ジャズ・クウォーテットと呼んだ。
でもそれはそんな正式な活動でもなく、ギグも定期的に行ったわけではなかった。
こうして1956年の12月か1957年の1月あたり、モンクが『シアトルでクウォーテットでのギグがあるんだ』と電話してきた。
その時アル・プランクは行かなかったがモンタナ州のシドニーにいたリチャード・クラブトゥリーが参加した。そこで我々はシアトルに向かいリチャードと落ち合いデイヴス5番街通りにあるデイヴス・ブルー・ルームと57年1月14日から3か月間の契約を結んだ。
また、タコマのコンゴ・クラブでも演奏した。その頃からこれ以上自分たちのバンドをインディアナポリス・ジャズ・クウォーテットと呼びたくはなかった。
そこでバディの奥さん(ロイス・アン・モンゴメリ) が『マスターサウンズはどうですか』と提案してくれた。私はバディ・モンゴメリ・クウォーテットもしくはモンク・モンゴメリ・クウォーテットと呼びたかったがでも本当に協力的なグループだったね。」と、ベニー・バースは証言する。
モンクがハンプトンを退団し2~3か月シアトルに滞在したとあるが、この時からシアトルを拠点に自分のバンドを持ちたいと言う気持ちが働いていたと思う。
かくして、ウェスを含まないインディアナポリス・ジャズ・クウォーテットは1月14日からマスターサウンズと名前を変え誕生したが、バディの提案で「各自役割分担を決めたい」と言い出し「モンクはバンドのスポークスマン的な働き、リチャードは金銭簿と衣装の担当、僕は編曲など音楽を担当するので、ベニーはこれ以外の仕事に加えリハーサルに関することをやってくれないか」とモンクが証言する。
しかし、シアトルでの長期活動が誤算を呼び仕事がなくなってきたことから、モンクは共同出資でデモ・テープを作り、代表としてサンフランシスコへ向かった。
そして9月、マーケット通りにあるノン・アルコールのナイト・クラブ、ジャズ・ショーケースのオーナーはデモ・テープを聴き、即座に無期限の契約に応じた。
一方、リロイ・ヴィネガー(b)はワールド・パシフィック・レコードのリチャード・ボックに電話を掛け「聴いてもらいたいデモ・テープがある。凄いグループなんだ。」と売り込りこみ、こちらも契約が成立した。
(参考: ヴィネガーは既にコンテンポラリー・レコードと契約しており、同郷のよしみでモンクから相談をうけていたと思う。)
画して同月と思われるがワールド・パシフィック盤《Jazz Showcase Introducing/Word Pacific PJM-403/WP-1271》と《The king and I/Word Pacific PJM-405//WP-1272》が異例の速さでレコーディングされた。
(参考: 前者が9月12日、後者が9月19日と記載されたサイトがある)
☆妹のアーヴェナ(レーナ)は1957年5月にジョージ・ハーマン・フロイドと結婚し、1958年には3046-1/2 ノース・ケンウッドに住んでいた。
☆57年はウェスの活動記録が少ないがモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットとしての出演とソニー・ジョンソン・クウィンテットのメンバーとしての新聞広告がある。




広告写真左から1枚目は1月にタウン・ハウスにニュー・ソニー・ジョンソン・クウォーテットとし、ポルカ・ドッツ・ダンス・バンドと共演しており、モンゴメリ兄弟との関連はないと思われる。
2枚目は、6月のソニー・ジョンソン・クウィンテットで、Sonny Johnsob(dr) Wes Montgomery(g) Pookie Jhonson(sax) Linnie Pirani(p) Flip Stewart(b)として既にモンクとバデイの名前はない。
1954-56年にかけ地元での活動で人気を博したモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットは恐らく56年の末までに解散したと思われる。これは後に説明するがベニー・バースの回想からも判断できる。
ところが写真3、4枚目の12月の広告では、モンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットとあり、メンバーの名前は記されていないが、おそらく元のメンバーが揃った時だけモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットとして出演することはよくあることで、後のマスターサウンズやモンゴメリ・ブラザーズ解散後も同じような動向がみられた。
特に4枚目の12月30日の広告は「セレブレティの新年パーティー」の予告で、ターフ・クラブにとってモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットは看板スターだったのです。
☆モンクは予てからクリスマス帰郷に合わせ計画していたことがあった、それはウェスを始めフレディ・ハバードなどインディアナポリスの地元ミュージシャンでレコーディングすることであり、この年の12月に《The Montgomery Brothers and 5 Others/World Pacific PJ-1240》がレコーディングされた。
同時に、ウェスはアンソロジ盤の一曲として《Have Blues Will Travel/The Blues Vol.2/World Pacific JWC-509》でジョー・ブラッドレイ(p) モンク・モンゴメリ(b) ポール・パーカー(dr)で、自身初となるリーダ曲〈フィンガー・ピッキン〉もレコーディングされた。
(参考: モンクはマスターサウンズ結成後のこの12月にクリスマスで帰郷し、レコーディングの合間にターフ・クラブでモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットとして出演していたと思われる。)

1958: 1月、ウエスト30ストリートに、ハバブ・ラウンジがオープンされた。
ウェス・モンゴメリ(g) アール・ヴァン・ライバー(p)、ミンゴ・ジョーンズ(b)は毎土曜日の午後4時から7時に出演した。(IPR:1958年1月25日号)このトリオの出演広告はミサイル・ルーム出演の直前4月5日まで確認できたが、トリオとして初めて確認できた広告でもある。
“ウェス・モンゴメリと彼のオールスターズ” フィーチャーリングとしてピアノとベースの名前が書かれてある。抱えているギターは L5-CES。

58年の初め頃、ジミー・コーはインディアナポリスを拠点にオハイオ州シンシナティに支店を持つノーツ・レコードと契約を結んだ。
ノーツ・レコードは1954年に設立されオーナーのジェリーとメル・ハーマン兄弟らによって59年まで運営されたがコーは9枚のシングル録音にプロデューサー的な役割で編曲
や指揮にも携わり、その最初の録音が2月にインディアナポリス生まれの白人ギタリストでもありヴォーカルのロッカー、ロニー・ヘイグとドゥー・ワップのコーラス・グループ、ファイヴ・スターズ、そこにコーとウェス等も参加した。
ヘイグは「ジミー・コーとノーツで5-6回のセッションを行ったと記憶している。
その全てがシカゴのスタジオで行われたがジャズ・ミュージシャンである彼らのロックンロールへの適応が素晴らしかった。
ファイヴ・スターズとは4曲を分けあい、俺はファイヴ・スターズの曲でプレイし、彼らは俺のバック・コーラスとして共演した。ミュージシャンは、サックスがジミー・コーとプーキー・ジョンソン、スタンドアップ・ベースはウィル・スコット、ドラムスはアール・ウォーカー(ライオネル・ハンプトンのバンドの)、そしてグランド・ピアノはヘンリー・カインだったと思う。

ギターはウェス・モンゴメリと俺が担当し、リードは俺が演った」と語り、ドゥー・ワップのコーラス・グループでシンシナティのスチューデンツも加わり「5月の母の日にはシカゴに行き、俺のバックにコーのバンドが参加し2曲を録音した」と付け加えている。
結果ウェスが参加したシングルは全4枚分残されているが、この証言でウェスがロックバンドに参加した事実は決定的であり、この時ウェスを加えたジミー・コーのバンドはジミー・コー・アンド・ザ・コホーツ(Jimmy Coe and The Cohorts)と名乗ったが、ノーツ・レコード以後の活動記録は残されていない。
近年のSNSでヘイグは「これらのレコーディング全てでウェスは【サックス・ブラザーズ:Sacks Bros】の質屋から中古で買った”ES-175″ のギターに、アンプは56年製のフェンダー・ベースマン・アンプ、60wの真空管式で10吋のジェンソン製スピーカー4基付いていたものを使っていた。
僕も同じようなものを使っていたが、チャック・べリーもそうだった。」との投稿があった。
写真: 1956 Fender Bassman 5E6
4月18日、ウェスはロス・アンジェルスでハロルド・ランド(ts) バディ(p) モンク(b) トニィ・バズレイ(dr)のメンバーと共にワールド・パシフィック・レコードで7曲のレコーディングに参加した。
マスターサウンズで活躍中のモンクとバディも共演させなからにもなぜか全てお蔵入りとなった。
4月22日、続けてロス・アンジェルスでウェスを含むマスターサウンズは《Kismet/World Pacific/WP-1243》をレコーディングした。マスターサウンズにウェスが参加したレコーディングはこの一度だけとなる。
5月24日、ウェス・モンゴメリのバンドは、クラブ・プランテーションのボール・ルームに出演し、ダンサーのために素晴らしい夜のエンターテイメントを提供したとある。(IPR:1958年5月24日号)
5月、写真下左はミサイル・ルームのグランド・オープンの広告。(IPR:1958年5月28日号)
北ウエスト通り518番地のミサイル・ルームが5月28日(水)から6月1日(日)に超スマートなダイニング&ダンス・スポットとしてグランドオープンさせた。ミサイル・ルームはクラブ・エボニーの中の大きな5部屋のひとつとでエアコン完備24時間営業】と説明されてあるが、招待のウェス・モンゴメリ・クウィンテットや元デューク・エリントン楽団で歌っていたデビー・アンドリュース、テレビ、ラジオ、ナイトクラブなどで活躍するトップ・エンターテイナーのフロ・ガービン他が午後10時30分から午前6時まで、ブレック・ファースト・クラブ(5部屋のひとつ)に出演したとある。(IPR:1958年5月31日号)・写真中は、6月7日号に掲載された広告でジャムセッションは6月8日(日)の深夜3時からウェス・モンゴメリ・クウィンテットが出演するという広告だが、毎週日曜日午前3時からとの案内は6月21日の広告までとなる。
・写真右の7月12日の広告では、木金土曜の音楽とショーは午前12時30分からブレック・ファースト・クラブで行い、地元で一流とされるジャム・セッションはミサイル・ルームで午前2時から6時までで、日曜だけ5時まで出演と案内されているが、ウェス・モンゴメリ・クウィンテットは毎夜出演していた。




この後、ミサイル・ルームの広告が掲載されなくなったが、それは元警察官だった経営者のジャク・ダーラムが複数の容疑で刑事裁判にかけられたことが原因と思われるが、営業は継続させており次に見られた広告は翌年のIPR紙12月12日号でクリスマス・ショーの案内であった。
おそらくこの間にウェス・モンゴメリ・クウィンテットも解散し、トリオへと編成替えを余儀なくされたと思う。

伝説的に伝えられている3つの仕事を掛け持ちをしていたという事実はこの時期からとなり、PRマロリーのバッテリー工場内のカフェテリアの従業員は既に辞めていたので、ポークス・ミルクという牛乳の生産と配達の会社で朝7時から午後3時まで働き、ターフ・クラブで夜9時から午前1時まで出演し、そのあとミサイル・ルームで午前2時から6時、日曜は5時までの過酷なスケジュールを熟していた、ということになる。
写真は左から、ベニー・バース、プーキー・ジョンソン、ポークス・ミルクの作業着姿のウェス。マスターサウンズとしてのベニーとウェスの経歴から見て57-58年頃の撮影思われる。

☆9月25日、北メデリアン通り2250番地にあったサパー・クラブ、ラ・ビーズにウェス・モンゴメリ・トリオが出演した広告。
ラ・ビーズは57年秋まではハワイアンの店モンキー ポッドとして営業していた。ウェス・モンゴメリ・トリオとして、ハバブ・ラウンジに続き2度目の広告で、確かにこれ以後ウェス・トリオの記事が多く見られることで本格的にトリオ編成を意識し始めた頃と思われる。
☆バディはマスターサウンズでの功績が認められ、ダウンビート誌でニュー・ベスト・ヴァイブラフォン・プレイア ーとニュー・アレンジャーの2部門で賞を獲得したが、モンクもバディも既にインディアナポリスの市民録には載っておらず、二度とインディアナポリスの住民に戻ることはなかった。
1959: 1月、マスターサウンズは、7日《Ballads and Blues/World Pacific WP-1260/ST-1019》をハリウッドのスタジオで録音し、4月11日はハリウッドのジャズヴィルでの仕事のためにカリフォルニア南部に戻っていたことで、ロスのパサデナ・ジュニア・カレッジで開かれたコンサートに出演したが、これをディック・ボックはライヴ・レコーディングし《In Concert/Word Pacific WP-1269/ST-1026》としてリリースした。

1月18日、シカゴのロンドン・ハウスで活動中のエディ・ヒギンスは非営利団体のインディアナポリス・ジャズ・クラブ(IJC)主催のもと西ミシガン通り1300番地にあった “Indiana University Medical Center Union” ・・いわゆるインディアナ大学医療センター内の学生会館ラウンジとなる一般的な場所に出演した。
ヒギンスは自己のトリオではなくドラムスはウォルター・パーキンスとされるが、不明のベーシストともどもシカゴから連れてきた。
ここにウェスが参加したが、非公式に録音されたテープが2015年レゾナンス・レコードより”Wes Montgomery One Night In Indy” として日の目をみた。
音源保管者はインディアナポリス・ジャズ・クラブ(IJC)の会長に就任していた、写真家でもあるダンカン・シャイトであった。まさに一夜限りのセッションであったが、盛況ではなかったとのこと。
3月29日(日)、北ペンシルヴァニア1444番地にある、1444ギャラリーにウェス・モンゴメリ・クウォーテット出演。
Wes Montgomery(g) Jack Coker(p) Phillip Stewart(b) Willis Kirk(ds) (IPS: 59年3月27日号)
4月18日、エアーズ高校の講堂でファション・ショーが開催されショーのバック演奏に地元のミャージシャンが出演した。注目のパフォーマーは、ファイヴスターズのヴォーカルとフレッド・ウィリアムス・クウォーテット。
Fred Williams(p) George Nicoloff(cl) Sonny Johnson(ds) Wes Montgomery(b,g)、ウェスはベースも弾いていた。(IPS: 59年4月18日号)
4月26日、1444ギャラリーにウェス・モンゴメリ・クウォーテット出演。
Wes Montgomery(g) Sonny Johnson(ds) Melvin Rhynen(p) Mingo Jones(b) (IPS: 59年4月24日号)
5月26日、インディアナポリス大学の講堂でジュニアクラスの後援によるジャズ・コンサートが開催される。Wes Montgomery(g) Dave Baker(tb) Jack Coker(p) Gary Grant(b) Dan Chapell(?)Dick Pollard(ds) (IPS: 59年5月24日号)
5月31日、1444ギャラリーにウェスはディック・ポラード・クウィンテットにゲスト出演。
Dick Pollard(ds) Wes Montgomery(g) Dave Baker(tb) Earl Van Riper(p) Gary Grant(b)(IPS: 59年5月27日号)

6月25日、エセックス・ハウスの “500クラブ” にウェス・モンゴメリ・トリオが出演。ドラムスはソニー・ジョンソン、オルガンはメル・ライン、明くる26日はマスターサウンズが出演した。(IPS: 59年6月25日号)
エセックス・ハウスは、ホテルと説明されてきたが、多種多様な店舗、事務所、アパートなどが混在している雑居ビルで、単にエセックス・ハウスと記載されている。またその中に、ファション・ショーや芸能関係などのイヴェント・ルームを、500ルームと言われているが、ここでは500クラブと記載されている。
(“500 Club”, Essex House, Indianapolis, IN 1959 ダンカン・シャイト撮影)



この写真でウェスはツイードのナロー・パネル期となるアンプを使っている。
ロゴ・プレートの大きさなどから見るとスーパー、あるいはバンドマスターのように見えるがいずれも低出力である。
高出力となるとロニー・ヘイグが語ったベースマン・アンプとも考えられるが横幅のサイズ、手提げの位置、そしてシールドの差し込んだ位置から見て57年製造の12吋のエミネンス・スピーカーを2基搭載した40wの57年製カスタム・ツイン・アンプのように思う。

6月28日、北デラウェア通りと東13番通りの交差点北東角にあったコロンバス騎士団(カトリック教徒の奉仕組織)のホールでのウェス・モンゴメリ・トリオ、バックにドラムスのソニー・ジョンソンとオルガンのメル・ラインが出演。翌29日は同ホールでマスターサウンズが出演。
(写真: IPS: 59年6月 Columbus Hall)
jazz concert in the Knights of Columbus Hall/Wes Montgomery(g) Sonny Johnson(ds) Melvin Rhynen(org)
☆マスターサウンズはシカゴのブルーノ ートやサンフランシスコのジャズ・ワークショップにスポット出演しているが、7月にニューヨークのジャズクラブ、バードランドに向う予定とのこと。(IPS: 59年6月28日号)
7月3日、マスターサウンズは、ロード島のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに参加。
〈Golden Earrings〉〈Nica’s Dream〉を始めモンク作曲の〈Band Intros〉など演奏したとある。
そして12月の《Play Compositions by Horace Silver/World Pacific WP-1284》がワールド・パシフィックでの最後のレコーディングとなった。

7月12日、1444ギャラリーの “ジャズ・アット・ザ・ギャラリー” シリーズにウェス・モンゴメリ・クウォーテット出演。(IPS: 59年7月11日号)
Wes Montgomery(g) Melvin Rhynen(p) Dave Atkins, Mingo Jones(b) Paul Parker(ds)
1444ギャラリーは他店とは少し違った趣で、例えばモダンジャズ〇〇シリーズなどと名を打って観客はプロ・ミュージシャンや、ジャズ通と言われるファンを中心に開催され、地元のトップ・プレイアーの新しいサウンドや演奏法などを紹介するというのが主旨で、この年から始めたようである。
他にも、インディアナ大学の教授がジャズをバックに詩を朗読するなどと、制約はしないことで人気があった。
7月26日、1444ギャラリーにデイヴィット・ベイカー・セクテットにウェスがゲスト出演。
(IPS: 59年7月24日号)
Dave Baker(tb) Wes Montgomery(g) Sonny Johnson(ds) Pooky Johnson(ts) Melvin Rhynen(p) Mingo Jones(b)
8月10日、北ウエスタン公園でアマチュアの6000人を集めたベスト・タレント・コンテストが開催されプロのミュージシャンが演奏を務めたとあり、ウェス・モンゴメリ・トリオ他出演したとある。(IPS: 59年8月9日号)

9月7日、インディアナ劇場でニューポート・ジャズ・フェスティヴァルのツアーが一夜限りのショーを開催。
出演は「ジョージ・シアリングと彼のビック・バンド、セロニアス・モンク・クウィンテット、アニタ・オデイとイギリスのアウトスタン
ディング・ジャズ・パーソナリティの2人、そしてハンフリー・リトルトン・オクテットとロニー・ロスのジャズ・メーカー。
特別呼び物としてチェット・ベイカー、キャノンボール・アダレイ、ナット・アダレイ」で、開演は20時15分となっている。
キャノンボールは出演後、ウェスから案内を受けていたミサイル・ルームに観衆として訪れたのは既に日付が変わった8日の深夜の出来事でその経緯は割愛するが、一行は9月10日のシンシナティと9月11日のシカゴでのショーの後、9月17日にはニューヨークに戻っていた。

キープニースは帰国後のキャノンボールからウェスの報告を聞かされる前に、ジャズ・レヴュー誌1959年9月号(Vol.2/No.8)で【インディアナ・ルネッサンス】と題されたガンサー・シュラーの投稿記事を読んで、すでにウェスの情報を掴んでいた。
同誌の内容はデイヴィット・ベイカーとウェスに特化したもので、シュラーがまだメトロポリタン・オペラ・オーケストラでフレンチ・ホルンを演奏していたころ、インディアナ州のブルーミントンでベイカーのバンドに出会い、彼からウェスの噂を聞かされ、ミサイル・ルームに案内されたという。

この時のウェスに対して今や伝説的にもなったが「彼のソロを聴いていると崖ッ淵でふらつく様な気分になり、耐えられないほど刺激的で持ち堪えるほどの肉体的耐久力を失う感じだ」というもので、この時のトリオはウェス・モンゴメリ、ポール・パーカーそしてメル・ラインだったと書かれてある。
ベイカーの回想によると「ミサイル・ルームはウォーカー劇場の通りを挟んですぐ向かいに民間の葬儀場 People’s Funeral Homeといって北ウエスト通り526番地にあり、その隣(518番地)にあった」という。
写真はミサイル・ルームで立て看板の上にクラブ名の【エボニー】と書かれてある。
ウェス・モンゴメリのリヴァーサイド契約について:
9月7日:インディアナ・シアターで、ニュー・ポート・ジャズ・フェスティヴァル・ツアー・パッケージ・ショーが開催され、公演後ウェスより案内されたキャノンボールは深夜も営業するミサイル・ルームに観客として訪れた。
9月8日:早朝キャノンボール(参考: 弟のナットと言う話もある)は、オリン・キープニュースにウェスの獲得を促す電話を入れる。
9月10日:キープニュースはウェスへ契約のことで電話をいれるが、「一度聴いてからからにしてくれ」という話になった。
9月17日:NYに帰ったキャノンボールはキープニュースに改めてウェスとの契約を推奨する。
9月22日:「ウェスの出演するターフ・クラブに午後9時に入店し、一晩聴いた後、引き続きミサイル・ルームへと足を運んだ」とキープニュースは語っている。

9月23日:キープニュースは「ウェスはミサイル・ルームで午前6時まで演奏したあと、標準的なユニオン形式の契約書に署名した。その時の感動は今でも忘れられない」と回想する。
写真はキープニュースが保管していた契約書と思われる。
(Jazz Heroes – Wes Montgomery)

10月5日:ニューヨーク、マンハッタンのミッドタウン、イースト・サイドにあるリーヴス・サウンド・スタジオで6日にかけての2日間で《The Wes Montgomery Trio/A Dynamic New Sound/Riverside RLP 12-310》をミサイル・ルームでのハウス・バンドとなるウェス・モンゴメリ(g) メル・ライン(org) ポール・パーカー(dr)でレコーディング。
写真は、ダウンビート誌の広告に【今年の素晴らしいニュー・ジャズ発見/ウェス・モンゴメリトリオ】とモンクやグリフィンのアルバムを差し置いて大きく掲載された。
それで、ウェスの初レコーディングについてキープニュースは当初ターフ・クラブでのライヴ録音が良いと考えたそうだ。
「ウェスが率いるトリオのエキサイティングなパフォーマンスを録るには、いつものレパートリーをいつも演っている場所で行うのが最良だ」と思ったそうである。
しかし、契約を交わしたということで当時としては成功を目指すには先ずニューヨークへ移住しなければならないと言うことが必須条件でしたが「移住できない条件を沢山抱えている若手ミュージシャンも少なくなく、ウェスも6人の子持ちで7人目の出産日が近いことから叶わぬこととして、レコーデイングの段取りは距離と時間を考慮すればよい」と考えたそうである。
それで「初レコーデイングはニューヨークが相応しいと思うのは信頼できるスタジオがあり、優れたエンジニアを使うことで最小のスタッフで済むことからウェスのプレッシャーを和らげることができると考えたからだ。」という細やかなキープニュースの配慮があった。

9月13日、1444ギャラリーに新しいシリーズとして、デビー・アンドリュースが出演。
彼女のバックはウェス・モンゴメリ・トリオで午後8時開演。
(IPS: 59年9月12日号)
9月30日、ターフ・クラブにウェス・モンゴメリ・トリオ出演中。
(IPS: 59年9月30日号)


写真左はデイヴィット・ベイカーとの2ショットでウェスが抱えている5本目となる57年製の少数生産だったP-90のピックアップ2基搭載の “ES-125D” となる。
写真右は9月、インディアナポリス・ジャズ・クラブ(IJC)が主催のデイヴィット・ベイカー(tb)のグループ、デイヴィット・ヤング(ts)、ラリー・リドレイ(b)にウェス・トリオのソニー・ジョンソン(dr)、メル・ライン(p)が加わったリハーサル風景。
場所はインディアナ大学医療センター内の学生会館ラウンジで、グランド・ピアノが常設してあり100人以上収容できる広さがあることから、インディアナポリス・ジャズ・クラブ(IJC)はここを当面本拠地とした。
ただ、この時期キーストン大通りにあるチャック・ベリーのスタジオを借りてのリハーサルも盛んに行われた。エイドリアン・イングラム著【ウェス・モンゴメリ】によると:
「この50年代には、チャック・ベイリーのインディアナポリス・リハーサル・スタジオが自由に使用でき、リハーサルの間、我々はチャックからテープを回し続けることも提案された。
ウェスはいつもそこにいて、バンドや何かのリハーサルをしていた。彼らはリヴァーサイドのためのリハーサルも重ねていた。」と、デイヴット・ベイカーの回想記事がある。
チャック・ベイリーとはシカゴで人気を博したロッカーのチャック・ベリーではなく、当時インディアナポリスにスタジオを構えたレコーディング・エンジニアで50年後期はデイヴット・ベイカーの録音もこなしたという人物である
10月17日のIPR紙は「素晴らしいウェス・モンゴメリ・トリオがターフ・クラブに出演中」と記載があるものの、この月にレコーディングしたとされるジョン・ヘンドリックスの《A Good GitTogether/Jon Hendricks/World Pacific WP-1283》は考えてみればウェスがリヴァーサイドと契約を交わしたあと、ましてキャノンボールは既にリヴァーサイドの顔役が何故このレコーディングに顔を突っ込んでいるのか・・。

ダウン・ビートの編集者であるドン・デマイケルは「実際には二日間の録音日付があり、ノーウッド “ポニー” ポインデクスターが1曲を除いて全てのアルトを担当していました。
ナットとキャノンは匿名で “ブロックバスター” として表記(参考: 裏ジャケットに書かれているが表ジャケットの写真を見れば一目瞭然)されていました」と言い、ダウン・ビート60年4月14日号で「フロリダ出身の二人の兄弟は誰なの?、コルネットとアルトサックスを演奏しているが・・オッと・・Cann(キャノンボール)を見つけた、もう一人のアルト奏者だ」と、皮肉った解説をしている。
この出来事はキープニュースも知らなかったと思うが、当然リチャード・ボックは承知のうえ・・だからこそブロックバスター(超大型爆弾)・・と洒落込んだと思う。
2回の録音日付とは59年10月26日と11月というサイトがあるが確証はとれていない。
☆更にこの10月にリチャード・ボックはポニィ・ポインデクスターをロス・アンジェルスに呼び、ウェスとマスターサウンズのモンクとバディで4曲のレコーディングを行うも、またもお蔵入りとした。しかし、ウェスがリヴァーサイド・レコードからレヴューし話題に上ってから、便乗のごとくボックは先のお蔵入りさせた58年4月の7曲などを合わせ60年7月に《Montgomeryland/Pacific Jazz PJ-5》とし、更に61年6月にはリリース済みの曲も含めて《Wes Buddy and Monk Montgomery/Pacific Jazz PJ-17》としてコンピレーションなリリースをしていた。
(参考:3兄弟揃っていることから、モンゴメリ・ブラザーズのバンドとして間違われることがある。結成前のレコーディングとなる。)

IPS紙ターフ・クラブ広告
ワールド・パシフィック・レコードのスター、マスターサウンズが11月20日から24日まで出演する。
Buddy Montgomery(vib) Monk Montgomery(fender bass) Benny Barth(ds) Richie Crabtree(p)
同じく12月1日の午後7時30分からシュラトリッジ・レターマンズ・クラブ主催でマスターサウンズはカレブ・ミルズ・ホールにに出演した。(IPS: 59年12月2日号)
マスターサウンズは59年ダウンビート誌の新人賞を獲得した。グループのうちベニー・バース(ds) バディ・モンゴメリ(vib) モンク・モンゴメリ(e-b)の三人はインディアナポリス出身でリチャード・クラブトリー(p)はモンタナ出身です。

12月4日のターフ・クラブの広告では、全米で評価された天才ギタリストとし、ニューヨークとサンフランシスコのレコーディング・セッションから戻ったばかりのウェス・モンゴメリが出演とある。
(IPS: 59年12月3日号)
しかし、地元で顔をあわせながらにもマスターサウンズとの共演は見られない。
*** 後 記 ***
ウェスの草創期から創成期はやはりこの1959年までとするが、何と言ってもウェスにとって一番のターニングポイントはリヴァーサイド・レコードとの契約であろう。
本人は裏心がなく、ただ純真にキャノンボールに聴いてほしい一心の気持ちが思わぬ展開になった事実は、ウェス本人が一番驚いたことであったと思う。
60年代に入って、すぐということではないが黎明期を経て、ある意味ジャズ界の寵児となり黄金期を迎えるが、9年とい短期間で不本意な終止符をうつこととなった。
この後、掻い摘んで60年の主な出来事を列記しておく。
ウェスのオクターヴ奏法について:
1959年にオリン・キープニュースのプロデュースで《The Wes Montgomery Trio/Riverside RLP 12-310》がリリースされ自身によるライナー・ノーツで、奏法についてウェスに聞いた話が「49年にほとんど偶然と思われるやり方でオクターヴでチューニングすることをみつけ、その一年後にはメロディをオクターヴで弾く練習をし始た。」と言う。
これについて同じことをフレディ・ハバードが証言したとされる、「50年代後半にウェスと僕はジョニー・ザ・クライング・トンプソンのブルーズ・バンドに雇われウェスはジョニーのサイドでユニゾンやハーモニ、さらにはオクターヴ差のユニゾンををつけていたが、ジョニーが弦を切るアクシデントに遭ったとき、とっさに彼の分まで演ったことでオクターヴ奏法を思いついた」と言う。
両人ともウェスに直接かかわった人だがかなりのタイムラグがあるものの、どちらも間違っていないと思う。
ウェスは61年のインタヴューで「それは当時としてはすごいチャレンジだったんだ。他にもオクターヴを使ってピアノのブロック・コードのような弾き方もできたが、結局テクニックを磨くにはすごく時間がかかった。そう簡単にはできなかった」と言う。
おそらく、ウェスがキープニュースに語った内容から察するに、49年からオクターヴ奏法について模索し始めたが、少なくとも56年8月には完成させている。
その証拠の一つにレゾナンスレコード《Wes Montgomery and The Montgomery-Johnson Quintet/Live at The Turf Club》の〈Brazil〉や〈Caravan〉など数曲ですでに真骨頂とされる【シングル・ノート、オクターヴ奏法】のみならず【ブロック・コード】まで使いこなしており、完成度はかなり高い。
それでフレディ・ハバードの話へと結びつけると、このアクシデントで「オクターヴ奏法を思い ついた」と言うより、すでに完成させていたことから演れたこととなる。
ただ、51年から54年まではウェスの音源が発掘されていないことで正確には言えないが、レゾナンス発掘の55年《Wes Montgomery and The Montgomery-Johnson Quintet》まではオクターヴ奏法を使っていないことは言える。
1960年、ターフ・クラブ黒人客ボイコット事件(其の2):
インディアナポリスでウェスのクラブ出演を語るうえで代表的なクラブといえば、初めての出演契約を得た440クラブ、次にキャノンボールに見いだされ、キープニュースとリヴァーサイド・レコード契約するきっかけとなったミサイラル・ルーム、順序はおかしいがモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットが活動の場として最もお世話になったのが、ターフ・クラブである。
2月、女性経営者のミルドレッド・トンプソンがアフリカ系アメリカ人のパーティー客を拒否したことで逮捕された。この時ウェスは出演していたとも記載されている。
3月、おそらくそのあと、保釈されたと思うが再びアフリカ系アメリカ人客の入店を拒否した。
現在では信じられないが、「商売上悪影響だから」との理由。
入店を求めるグループに、「黒人にはサービスしたくない。すべてのビジネスには誰にでもサービスを拒否する権利がある」と主張した。
4月9日、IPR紙は、「ターフ・クラブの経営陣がその立場を明確にした」と報じた。
経営陣は、16番街とラファイエット・ロードで開催された週末のイベントで、南部連合旗を掲げた。
その後、公共施設は法的に整備されたが、多くのクラブはアフリカ系アメリカ人アーティストを起用していると反発した。
5月、トンプソンの差別容疑は無罪となった。しかし、ウェスはそれ以後ターフ・クラブに出演しなかったようである。(1968年8月にバディのバンドが兄のモンクを含めて戻ってきたが、まさにウェスが亡くなってからのことだ。)
ターフ・クラブは1972年9月にピザ屋となり、1987年頃からは社交ではなく大人のダンス・クラブとなった。
1960
・バディは、1月11日から21日にかけてマイルス・デイヴィス・セクテットに参加し、シカゴのサザーランド・ホテルで初演を飾る。
・ウェスは1月25日から28日にかけて《Work Song/Nat Adderley/Riverside RLP 12-318》と《The Incredible Jazz Guitar of Wes Montgomery/Riverside RLP 12-320》をニューヨークで掛け持ち録音をする。
・2月初め、モンゴメリ・ブラザーズ結成。ウェス・モンゴメリ(g) バディ・モンゴメリ(p) モンク・モンゴメリ(b)、ローレンス・マラブル(dr)はサンフランシスコのハングリー・アイで活動開始。
・バディは、3月3日から5日にかけて、マイルス・デイヴィス・セクテットに参加。
・モンゴメリ・ブラザーズは3月下旬から5月上旬にかけてサクラメントのスゥインギン・ランタンで活動。
・ウェスは5月17から18日にかけてサンフランシスコで《 West Coast Blues!/Harold Land/Jazzland JLP-20》のレコーディングに参加。
・ウェスは5月サンフランシスコ、6月ロス・アンジェルスで《Cannonball Adderley And The Poll-Winners/Riverside RLP-355》のレコーディングに参加。
・9月25日、モンゴメリ・ブラザーズはカリフォルニア州のモントレイで開催されたモントレイ・ジャズ・フェスティヴァルに参加。
・そのファンタジー・レコードで秋ごろ、3兄弟らからなるモンゴメリ・ブラザーズ名義第一作《The Montgomery Brothers/Fantasy 3308》をサンフランシスコでレコーディング。
・ウェスは10月12日、リーダ3作目《Movin’ Along/Wes Montgomery/Riverside RLP-342》をロス・アンジェルスでレコーディング。
バディとマイルス・デイヴィス・セクテットについて: 「マイルス・デイヴィス(tp) ジョン・コルトレーン(sax) バディ・モンゴメリ(vib) ウィントン・ケリィ(p) ポール・チェンバース(b) ジミー・コブ(dr) と凄い顔ぶれであるが、バディの参加にマイルスは手放しの喜びようであったという。

1960年1月11日から21日にかけ、シカゴにあるサザーランド・ホテルへの出演にむけて、マイルス一行はいったんインディアナポリスへ飛行機で向かった。
それは飛行機に乗れないバディのためであり、そこからバスに同乗させシカゴへ向かった」というのである。
この期間、マスターサウンズの解散前であるにもかかわらずマイルス・コンボに参加しているという不自然さがある。この後、1月27日にはロス・アンジェルスでも参加したというデータがあり2月初めにはモンゴメリ・ブラザーズが結成されサンフランシスコで活動開始という事になるが、バディも絶えず行動を共にしていたのであろうか。疑問が重なるなか、再びバディは「3月になって3日はロス・アンジェルス、4日はサンフランシスコ、5日はオークランドでマイルス・コンボに参加した」というデータが残されてる。
この1月から3月にかけてのバディの行動は目まぐるしく、主体がモンゴメリ・ブラザーズなのかマイルス・コンボなのかはっきりとしない。
それ故、バディがマイルス・コンボに【入団】という正式なものだったのか、それとも一時的に【参加】したとみるのか、見極め難い。
ところが「3月21日から4月10日にかけてマイルス・コンボがJATP欧州ツアーに参加するということで、メンバーの一員としてバディの名前がパンフレットに印刷されていたにもかかわらず、直前で飛行機の恐怖からツアーを断念、事実上グループからの【離脱】となった。」と説明されている。
傍ら、バディは3月下旬から5月上旬にかけモンゴメリ・ブラザーズでシスコのサクラメントに在るスゥインギン・ランタンに出演していたので、直前ではなく何かと飛行機の移動が多いマイルスのバンドでは演っていけないと早い時期から【離脱】を決断していたと思う。
IPS紙60年4月16日の記事で、【マイルス・デイビス一行がバディ・モンゴメリ抜きで海外ツアーをしているのは、バディがアイドルワイルド(現NYCのジョン・F・ケネディ国際空港)でジェット機に搭乗する予定だった直前にひどい恐怖症にかかり、ヨーロッパ便に乗らず、反対方向の飛行機へ一目散に飛乗った】とある。(“The John Coltrane Reference” 参考)

マスターサウンズについて:
最初にリリースしたアルバムは成功し、2作目にリリースしたアルバム《The king and I》で彼らは有名になった。
バディはすでにヒット映画にもなっているミュージカル “王様と私” からの曲をベースにアルバム作成を提案した。これは当時の流行に合わせたことで、シェリー・マンとアンドレ・プレヴィンによると「多くのリスナーはジャズ・コンボのアルバムはあまり購入したがらないが、よく耳にするようなショー・チューン(舞台ミュージカルのために書かれた曲目)の演奏がアルバムに挿入されているだけでよく売れた」と言っている。
ほとんど純粋なジャズ・グループがモダン時代に得ることのできなかった快挙をこのバンドはショー・チューンで成功をもたらした。
その人気を博して、マスターサウンズは活動拠点をジャズ・ショーケースからブロードウェイ通りのジャズ・ワークショップに移した。
ベニー・バースは「我々はここをホームベースとし、しばらくは断続的に演奏した。ちょうどカル・ジェイダーの場所がブラックホークであったのと同じように。
あるとき、休憩で外に出ると、行列が角の辺りにまで達していた。
以前のワークショップはローカル・タレントだけだったが、我々がそこで演奏するようになってからは有名なバンドが呼ばれるようになった」と言う。
シアトルのペントハウスに「独創的なマスターサウンズ今夜出演」との新聞広告。
59年、マスターサウンズは《The king and I》の高評を受けてダウンビート誌の国際ジャズ批評家投票でベスト・ニュー・グループに選ばれてまだ間もない時、モンクとバディはウェスと新バンドを形成するために、60年1月末でジャズ・ワークショップとの出演契約が切れると2月1日を持って解散させた。
その数日後にはウェスとサンフランシスコで合流しハングリー・アイのハウス・バンドとして実質的にモンゴメリ・ブラザーズが結成された。

モンクは「もうこれ以上続けられない。ウェス抜きでは考えられない。」と解散の理由を述べているが、西海岸で受けたショー・チューンも全国的には広がらずやがて流行から覚めたミュージカルでの仕事も少なくなっていったのもそのひとつであろうと思う。
ただ、そう言うモンクにも迷いがあったのは事実で、モンゴメリ・ブラザーズを始動させなからにも60年代中頃マスターサウンズは再結成された。
そもそもグループは解散後もサンフランシスコに住んでいたという事実がファンタジー・レコードとの契約に結び付いていたが、どちらが持ち掛けた話なのかモンゴメリ・ブラザーズとの兼ね合いはどうつけたのか、疑問は残る。
そんななか、60年7月《Swinging With The Mastersounds/Fantasy LP 3305》、同11月に《A Date With The Mastersounds/Fantasy LP 3316》のレコーディングが行使された。
さらには、ヨーロッパ・ツアーのオファーを受けたにもかかわらず、僅か数か月で再び解散とした。
一部のウェブで3作目にあたる61年録音《The Mastersounds on Tour/Fantasy 3327》とあるが、確認すると現在このレコード番号は全く別グループのものであり、フアンタジー・レコードはヨーロッパ・ツアーのレコーディングまで考え、すでにレコード番号を確保しカタログにまで載せ準備していたのだが・・幻盤となった。原因はバディの飛行機恐怖症であった。
モンゴメリ・ブラザーズについて:
マスターサウンズ解散後の新グループの形成を整えるのに、サックスのハロルド・ランドとドラムスのローレンス・マラブルが参加する予定となっており、バディがピアノとヴァイブを兼ね、コロンビア・レコードのジョン・ハモンドとの契約交渉に臨んでいるという噂も流れていた。
結果的にウェスが独自でリヴァーサイドと契約していたことでコロンビア・サイドは回避したが、マスターサウンズとして既にファンタジーと契約したモンクとバディのこともあり、オリン・キープニュースがリヴァーサイドとファンタジーの間で交互にレコーディングすることでとりまとめた。
1960年2月上旬、ウェスはシスコで活動する兄弟達と合流し、ハングリー・アイでハウス・バンドとして実質的にモンゴメリ・ブラザーズを始動させた。
既にバディは1月よりマイルス・デイヴィス・セクテットに参加しているが、2月の行動ははっきりしないまでもモンゴメリ・ブラザーズとしての活動もそこそこあったと思う。
このようなことで3月下旬から5月上旬にはフル・メバーでシスコのサクラメントに在るスウィンギン・ランタンで活動を再開させたが、立ち上がりはけっしてよくなかったという事になる。
9月23日から25日にかけてカリフォルニア州のモントレイで開催されたモントレイ・ジャズ・フェスティヴァルに彼等は最終25日の夜の部に出演した。
これをきっかけに、というよりウェスの参加でモンゴメリ・ブラザーズの知名度がより全国に広まった。
1960年以降はロックやポップスの台頭にも影響されジャズそのものが衰退していくなか、多くのミュージシャンがインディアナポリスを離れ、ニューヨークへと進出した時期でもあった。
モンゴメリ3兄弟の活動も、ウェスの知名度が上がるにつれグループとしての仕事は少なくなり、とうとう1962年4月モンゴメリ・ブラザーズは解散となった。
以降モンクとバディはおのおのグループを組んで他のバンドに参加しているが、何らかのイヴェントに参加する時はマスターサウンズを名乗ったり、ウェスがいるときはモンゴメリ・ブラザーズとして出演していた。
後半はいずれ、また・・。
